ローマ市民の反応は冷めていたが、ユリウス・カエサルはローマとエジプトの結びつきに期待を寄せていた。ウェヌス・ゲネトリクス神殿にクレオパトラの像を建てさせたカエサルはこの時期、帝政ローマへの移行を始めるべきときにあると考えていた。ちまたでは、カエサルがアレクサンドリアへの遷都を企てているのではという噂も広がった。

だが、その野望が実現することはなかった。紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺されたのだ。カエサリオンを自身の後継者と正式に認めることはなく、遺書には大甥(おい)のガイウス・オクタウィアヌスを後継者にすると書かれていた。

カエサルが殺されたときローマに滞在していたクレオパトラは、自分たちの命も危ないと気付き、カエサリオンを連れて直ちにエジプトへ戻ることにした。

カエサルの死後

アレクサンドリアに戻るとすぐに、クレオパトラは権力の統合に乗り出した。史料によると、弟で共同統治者だったプトレマイオス14世を毒殺し、幼い息子のカエサリオンを共同で王位につけた。こうして、プトレマイオス15世カエサルが誕生する。

ローマのオクタウィアヌスは、幼きファラオとの血縁関係を否定した。これに合わせて、故ユリウス・カエサルの右腕とされたガイウス・オッピウスも、カエサリオンはカエサルの息子にあらずと書いた書物を発表した。ローマの新たな支配者への態度には気をつけろ、というクレオパトラへの警告に他ならなかった。

カエサリオンに運が回ってきたのは、紀元前42年に、マルクス・アントニウスがローマの執政官としてエジプトにやってきたときだった。アントニウスは当時、同じく執政官だったオクタウィアヌスを倒す方法を探っていた。紀元前41年、クレオパトラはアントニウスに呼び出されてタルソスに赴く。

国と息子の命運をかけた会見に臨んだクレオパトラを見て、アントニウスは恋に落ちた。このふたりの関係は、歴史上最も情熱的な恋愛物語のひとつとして後世に伝えられている。

アントニウスは、紀元前41~40年にかけての冬を、エジプトでクレオパトラと過ごした。ふたりの間には男女の双子が生まれ、アレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネと名付けられた。その後さらに、もうひとり男の子が生まれ、プトレマイオス・ピラデルポスと名付けられた。この時期に、クレオパトラは王国を広げ、カエサリオンのためにシリア南部、キプロス、そしてアフリカ北部を領土に加えた。

紀元前34年、アントニウスはアレクサンドリアの競技場でクレオパトラを正式にエジプトの女王とする宣言を行い、カエサリオンに「諸王の王」という称号を与えた。また、カエサリオンはユリウス・カエサルの正統な息子であると公認した。クレオパトラとの間に生まれた3人の子どもたちにも王族の称号を与え、アレクサンドロス・ヘリオスには領土と王国を約束した。

ところが、これに激怒したオクタウィアヌスは、クレオパトラとアントニウスに対して宣戦布告する。紀元前31年9月2日、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスの軍に敗れたクレオパトラとアントニウスはアレクサンドリアへ撤退した。息子の身を案じたクレオパトラは、教育係とともにカエサリオンを町から去らせた。

カエサリオンは南へ向かい、船に乗ってアラビアからインドへ逃れようとした。ところが港への途上で、ローマ軍がアレクサンドリアに入り、母親とマルクス・アントニウスがふたりとも死んだとの知らせを受け取った。そのまま旅を続けていればカエサリオンの命は助かったかもしれないが、孤児になったカエサリオンにオクタウィアヌスが情けをかけてくれるかもしれないと教育係に説得され、カエサリオンは戻ることにした。

実際、オクタウィアヌスは若きカエサリオンの命を助けることも考えた。しかし、「カエサルが何人もいるのは不適切だ」と側近に言われ、心を変える。

紀元前30年8月、オクタウィアヌスに面会するためにアレクサンドリアに到着したカエサリオンは、直ちに処刑された。ローマとエジプトをつなぐファラオの夢は潰え、古代エジプトのプトレマイオス朝は、カエサリオンの死とともに滅亡した。

次ページでは、このドラマに関係した人々を、今も残る遺物の写真で振り返ろう。

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