実験の重要性に鑑み、フェルミ研究所は先入観を排除する対策を講じた。実験のカギとなる測定は、検出器が信号を拾う正確な時刻に依存する。そのため、科学者たちが不正をしないように、乱数を使って実験装置の時計をずらしたのだ。これにより実験データは未知の量だけずらされ、解析が終わった後に初めて修正されることになる。

時計をずらした乱数は2枚の紙に手書きで記録されて封筒に入れられ、フェルミ研究所と米ワシントン大学にある鍵のかかったキャビネットに保管された。2021年2月下旬に、この封筒が開けられ、チームに数字が知らされた。チームはZoom(ズーム)の中継で、初めて実験の本当の結果を知ることができたのだ。

「天にも昇るような気持ちで興奮しましたが、同時に衝撃も受けました。心の奥底では、誰もがどこか悲観的だったからだと思います」と、ミューオンg-2実験チームのメンバーでフェルミ研究所の博士研究員であるジェシカ・エスキべル氏は振り返る。

新たな物理学の始まり?

フェルミ研究所の新しい実験結果は、標準モデルの先にあるものを示す重要な手がかりとなるが、新しい物理学を発見しようとする理論家が探れる範囲は無限ではない。ミューオンg-2実験の結果を説明しようとする理論は、LHCで発見された新しい粒子が欠如していることも説明できなければならないからだ。

提案されている理論の中で、この要請を満たすものとしては、宇宙には標準モデルに含まれるヒッグス粒子のほかに数種類のヒッグス粒子が存在しているという理論がある。また、ミューオンとほかの粒子の間に新しい種類の相互作用を引き起こす、エキゾチックな「レプトクォーク」を登場させる理論もある。しかし、これらの理論の最も単純なバージョンの多くはすでに否定されているため、物理学者は「もっと型破りな考え方をしなければなりません」とシュテッキンガー氏は言う。

偶然にも、フェルミ研究所の結果が発表された2週間前には、CERNのLHCb実験が、ミューオンの異常なふるまいに関する証拠を独自に発見していた。LHCb実験では、B中間子という寿命の短い粒子を観測し、その崩壊を追跡している。標準モデルは、崩壊する粒子から1対のミューオンが生成することがあると予測しているが、LHCb実験は、ミューオンが生成する崩壊の頻度が予測よりも少ないことを示す証拠を発見した。この実験では、偶然によってこのような結果になる確率は、およそ1000分の1である。

フェルミ研究所の実験と同様、LHCbの結果も「発見」であると主張するためにはもっとデータが必要だ。しかし現時点でも、この2つの結果に物理学者たちは「飛び上がって喜んでいます」とエル・カドラ氏は言う。

次のステップは、実験結果の再現だ。フェルミ研究所の発見は、2018年半ばに終了した1回目の実験に基づいている。研究チームは現在、さらに2回分の実験データを分析している。これらのデータが1回目の実験のデータと同様であれば、2023年末までに、観測された標準モデルとのずれが完全な「発見」だと十分主張できる可能性がある。

理論物理学者たちは、標準モデルの予測のなかでも特に計算が難しいとされる部分も調べはじめている。これには「格子シミュレーション」と呼ばれる、スーパーコンピューターを使った新しい手法が役立つはずだが、初期の結果は、エル・カドラ氏のチームが理論計算に含めたいくつかの値とわずかに異なっている。このような微妙な違いを綿密に調べて、新しい物理学の探求にどのような影響を与えるかを見きわめるには、まだ何年もかかるだろう。

だがランカスター氏らにとっては、それだけの時間をかけて研究を続ける価値は十分にある。なんと言っても、ここまで来られたのだから。

「1PPM(100万分の1)以上の精度で測定しようとしていることを人に言うと、変な目で見られることがあります。それには10年かかるだろうと言うと、どうかしていると言われます」とランカスター氏は打ち明ける。「やり通せ、という意味だと受け取ることにしています」

(文 MICHAEL GRESHKO、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年4月13日付]

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