帰国して描く回想のスペイン風景は、古典技法をベースに、やはり褐色調による建物風景であった。やがて建物の内部風景から外観を描くように変わり、画面に明るさがますとともに人物群像も配されるようになる。そしていよいよ1976年、33歳のとき、のちに「ヤブノ・ブルー」と呼ばれる青空をたたえた本作品《僕は思い出す》を描くこととなった。赤茶けた土肌はかつて名古屋でみた焦土の色であろう。しかしその昏(くら)さは、未来をあざやかに映すヤブノ・ブルーの青空でおおいに救われるところとなる。

「20代のあるとき、坂崎乙郎先生が、男子は33歳までは就職も結婚も、世に出ることもなくてよいとおっしゃられた。就職すると、生活は安定しても時間がもてなくなる。貧乏しても自分の好きなことをせよ。結婚を急いで家庭的な幸福に早くひたる必要もない。また、無名でも、肩書がなくても、見るひとは必ず見ているものだ、と。なぜ33歳なのかは聞かなかったが、ファン・ゴッホやエゴン・シーレらをなんらか念頭においた上で坂崎先生らしい直観だったのかもしれない。そのお話を伺ったとき、少し安心したような気持ちになった。その後もけっきょく就職を考えず、大学の図書館にかよって膨大な文献に目をとおしていたような時期もある。面白いことに、結婚したのも、この作品などをきっかけに画壇でみとめられるようになったのも33歳のときだった。画家の人生は、ながい助走期間のもとに三段跳びを試みるといったところではないか」

今はない建物も生き生きと

その後、藪野はヴェネチアやパリの連作などにも取りくみながら、油彩による大型作品を中心とした発表活動を行っていく。そのかたわら、ライフワークともいうべきスケッチによる街の建物風景を精力的に描きつづけてきた。それは東京であったり郷里の名古屋近辺であったり、あるいは日本全国やヨーロッパの街並みであったり、教授もつとめることとなった母校、早稲田大学の周辺であったり。明治から昭和の戦後まもないころに建てられた、ふるくともモダンな建物にとくに引かれてきた。

さらには、今はなくなってしまった建物も写真資料をもとにいきいきと描かれることとなる。何千点にもおよぶそうしたスケッチ群は、どれを見てもどこか愛しさや懐かしさをおぼえさせるものだ。藪野の作品によって街の記憶が、そこに生きる人たちに定着する場合もさぞや多かろうと思われる。

また、鉛筆や水彩などによるスケッチを精力的に描いてきたといっても、画面のどこにも苦闘の痕跡はない。かつて藪野の母親が、健は幼少のころからすごいスピードで絵を描き、犬でも見たはしから、ときにシッポからでも描いてしまうと話していたのを思い出す。筆の運びになんら渋滞がなく、すべては気持ちよく描かれている。

建物はひとの生きた証し。描いていると、そこにかつて生きた人たちがあらわれて藪野を見つめかえす。建物の歴史と自由な往還関係をきずくなか、1枚描くごとに藪野のなかの記憶の蓄積が厚みをましたことであろう。ひいては油彩画制作のバックボーンとなっていった。幼少期の戦後体験をもとにした回想という藪野独自の方法は、おびただしい数のスケッチを描いてきたことに支えられつつ、こんにちに至るまでもたえず展開をつづけている。(敬称略)

中山真一(なかやま・しんいち)
1958年(昭和33年)、名古屋市生まれ。早稲田大学商学部卒。42年に画商を始め61年に名古屋画廊を開いた父の一男さんや、母のとし子さんと共に作家のアトリエ訪問を重ね、早大在学中から美術史家の坂崎乙郎教授の指導も受けた。2000年に同画廊の社長に就任。17年、東御市梅野記念絵画館(長野県東御市)が美術品研究の功労者に贈る木雨(もくう)賞を受けた。各地の公民館などで郷土ゆかりの作品を紹介する移動美術展も10年余り続けている。著書に「愛知洋画壇物語」(風媒社)など。

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