バーミヤン石仏爆破から20年 写真で見る、破壊の前後

1996年7月、フランスの写真家パスカル・メートル氏は、アフガニスタンのバーミヤン渓谷の岩山に彫られた巨大な仏像を3度目指したが、すべて失敗に終わった。氏は「レクスプレス(L'Express)」誌の取材でアフガニスタンの首都カブールに滞在していた。カブールからバーミヤンまでの距離は100マイル(約160キロ)にも満たない。それでも出発の朝になると、運転手は毎回キャンセルした。報酬を弾むと言っても無駄だった。
後で判明したことだが、ルート上の検問所には武装集団が人を配置し、四輪駆動車を手に入れたがっていた。現地の人々は車が没収されるとわかっていたのだ。最終的に、メートル氏は友人に助けを求めた。数日後、メートル氏はすし詰めの通勤客ごと路線バスをレンタルし、ペラハン・タンバンと呼ばれるアフガニスタンの男性が着るチュニックとパンツを着用して検問所を切り抜けた。
バーミヤンは危険を冒してでも行く価値のある場所だった。6世紀に建造が始まった高さ約38メートルと55メートルの石仏が渓谷を見下ろすように立っていた。石仏は老朽化し、放置され、戦争の被害を受けてボロボロになっていたものの、かつてこの地が活気に満ちたシルクロードの中継地だったことや、仏教研究の中心地だったことをまざまざと思い出させてくれた。アフガニスタンの情勢が不安定になるまで、バーミヤンは多くの旅行者や考古学者を引き付けていた。
メートル氏は何度もアフガニスタンに来ていたが、バーミヤンを訪れたことはなかった。同氏は丘に登り、2体の大仏とその足元に広がる小麦畑、背後のヒンドゥークシュ山脈を眺めた。
渓谷にはハザラ人の武装した男たちが集まっていた。彼らは渓谷を長く支配してきた民族で、国の支配権を争うイスラム原理主義勢力タリバンとの戦闘に備え、大仏の足元にいくつも彫られた洞窟に武器や弾薬を保管していた。洞窟にはパキスタンから戻ってきた戦争難民も暮らしていた。その天井は7世紀の油絵で装飾されており、油絵としては世界最古の部類だ。
メートル氏の訪問の直後、タリバンがカブールを制圧し、アフガニスタン・イスラム首長国を樹立した。当初、タリバンはバーミヤンの有名な大仏を尊重しており、ある司令官が大仏を撃った後、アフガニスタンの文化遺産を守る命令まで出した。しかしその後、彼らの政権に対する国際的な承認が広がらないことや米国の制裁強化におそらく不満を感じ、リーダーたちは考えを変える。

2001年3月、タリバンは大仏の足元に爆弾を仕掛けた。1500年の歴史を持つ大仏は数週間でがれきの山と化した。それからちょうど20年。タリバンが政権を掌握する直前に撮影した写真は、そびえ立つ大仏の最後の記録の一つではないかとメートル氏は考えている。
「最悪の出来事でした」とメートル氏は振り返る。「ほかの多くの場所は略奪のために破壊されましたが、バーミヤンの大仏は略奪されていません。彼らはただ破壊したのです。この点に、人々はショックを受けました。このとき、世界は本当の意味で、何かが変わったと理解し始めました。世界的な遺産への敬意が失われたと理解したのです」
2006年、メートル氏がバーミヤンに戻ったとき、巨大な空洞だけが山肌に残されていた。タリバン政権崩壊後の2003年に、バーミヤンは世界遺産に登録されていた。そこにはアフガニスタンの考古学者たちがいて、伝説にある第3の大仏を探していた。その大仏は破壊された2体よりさらに大きく、横向きに彫られたと言い伝えられている。破壊された状況を初めて目の当たりにしたメートル氏は、貴重な文化の歴史が失われたことを理解するのに苦労した。
「大きな穴が開いていて、何も残されていないのです」とメートル氏は振り返る。「なかなか理解できませんでした。以前たしかに見たものが、消えてしまったのですから」
次ページでも、パスカル・メートル氏が撮影した、かつてのバーミヤンの貴重な写真と、その後、タリバンに破壊された大仏をご覧いただこう。







(文 NINA STROCHLIC、写真 PASCAL MAITRE、訳 米井香織、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2021年3月26日付の記事を再構成]
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