ダイヤル・サービスを1969年、立ち上げたのも「女だてらに」の壁に付きまとわれた結果の産物。何しろ大学を卒業しても就職先が見つからなかったからだ。今野さんはテレビ局や商社の門をたたいた。どこも筆記はパスしても、面接でダメに。ならば「自分で会社を興すしかない」と決意し、それまでの猶予を「10年間」と定め、その間、様々なアルバイトで生計を立てた。大学時代、学生新聞の編集長をしていた関係で知り合ったマスコミ関係者から原稿書きや口述筆記の仕事が舞い込み、三浦朱門、曽野綾子夫妻ら当時の著名作家らとも交友関係を深めることができた。

ニューヨーク万博が転機に

ちょうどその間にあたる1964年春から翌年秋にかけて、米ニューヨークで世界博覧会(万博)が開催され、その日本館のコンパニオンに応募し、採用されたことが、起業する上での大きな転機となる。

万博開催期間中、ニューヨークに滞在中に偶然パラパラめくったイエローページ(電話帳)で、「テレホン・アンサリング・サービス」という会社を見つけた。電話応対による会員制秘書サービスや、カタログショッピングの電話注文の受け付けなどを仕事にする会社だった。さっそく会社を訪問し、社長の女性から話を聞いた。

創業から間もないころのダイヤル・サービス。今では懐かしい黒電話が並ぶ

日本でも「電話」が普及していけば「双方向のメディア」となり、ビジネスツールとして生かせそう――。そのひらめきをもとに万博閉幕後は、電話ビジネスの最前線を探るため欧州にも足を延ばし、その後、帰国する。

ダイヤル・サービスが東京・渋谷のマンションの6畳一間の一室でうぶ声を上げたのは、起業を誓ったまさに10年後。黒電話2台、今野さんを含め女性7人での船出だった。

「赤ちゃん110番」が大反響

当時の日本は、まさに高度経済成長期のまっただ中。都市部へと人口が集中し、核家族化が急速に進行。一方で「育児ノイローゼ」といった言葉が生まれ、一人で育児を担う母親の悩みも深刻化していた。電話応対による24時間秘書サービスで起業したが、その後間もなく取り組んだ「赤ちゃん110番」が大反響を呼ぶ。

時代のニーズに合致したこれまでにないサービスだったからだろう。開始直後から全国の母親からの電話が鳴りやまず、日本電信電話公社(現NTT)の電話局の電話回線がパンクするほど。「公共の電話回線を民間のビジネスに利用し、パンクさせるとは何事だ」。電電公社の幹部から雷を落とされたが、電話相談サービスに社会的意義があり、人々の救いになっている現実に、今野さんは改めて使命感を深めた。以降、「子ども110番」や「熟年110番」、「電話健康相談」や最近の新型コロナウイルス禍まで、電話相談サービスを拡充してきたワケはそこにある。

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