佐藤さんは南三陸町立志津川中学3年のときに被災。南三陸町では津波が中心部を襲い、死者・行方不明者は約830人に上った。高台の校舎にいた佐藤さんは無事だったが、自宅は流され、母方の祖父母を亡くした。商店を営んでいた祖父母の影響で、幼少から商売が好きだという佐藤さんは「いつか地元で自分の店を持ちたい」と語る。
――「故郷の1枚」として母校での写真を選んでいただきました。所々折れているように見えますね。
「中学3年の冬、卒業アルバム用に学校の正門前で撮った写真なのですが、これが保管されていた写真店ごと津波で流されてしまったんです。ですが後日、奇跡的にこの写真が、中学の入り口付近に落ちていたのが見つかり、卒業式もろくにできなかった私たちにとって、地元や同級生たちをつないでくれるような1枚です」
――震災当日も中学校にいたそうですが、津波にはすぐに気付いたのでしょうか。
「地震発生直後は学校の体育館に避難していて外の様子がわからなかったのですが、1人の女子生徒が『家が流された』って言い始めて、そのときは川が増水したのかな、というぐらいに思っていました。3階の教室に戻って、津波で覆われた町を見たときは、みんな絶句しましたね」
精神的につらかった大学時代
――震災のことは今振り返ると、どんな気持ちですか。
「悲しいことが多すぎて、でも最終的にはポジティブに向き合えたのかなと思います。地元を失うということって、こんなにもショックを受けるんだと、だからこそ地元を大事にしようという思い、愛着がわいてきました」

――高校時代から「語り部」の活動をされていたそうですね。
「当時は若者から震災の話を聞きたいというニーズが結構あって、『語り部』として震災関連のイベントなどによく呼ばれていました。他に子供会のボランティアなどもありましたが、話すのが得意だったので話し手になるイベントが多かったですね。こういう活動をやっていくなかで、人とのつながりを大事にする仕事がしたいなと思うようになり、地域コミュニティーについてどうしても勉強したくなって、慶応義塾大学SFC(湘南藤沢キャンパス)に進学しました」
――悲しみを抱えながらのボランティア活動はつらくなかったですか。
「実は精神的につらかったのは、大学時代なんです。高校でボランティア活動をしていたときは、むしろ『ハイ』な状態でした。宮城県内では『変わったことをしている高校生』だったのが、SFCは全国からユニークな学生が集まっているので自分が実は平凡な人間なんだと気付かされ、『何者でもない』感覚が強くなっちゃって、スランプになっちゃった感じです」
「大学時代もボランティアはやっていたのですが、震災に向き合うのがつらくなった時期もありました。『被災者』として扱われることが気持ち悪いなと思ったり、距離的な問題もあって地元にうまく関われていない自分が嫌だったり……。東京にいながら地元に関わる機会を探してはいたけどうまくかみ合わず、地元と東京の意識の差みたいなところにモヤモヤしたこともありました」