禅宗背景に尊氏と正成の物語 文化形成の転換点に関心
第12回日経小説大賞受賞『利生の人 尊氏と正成』著者に聞く
作家 天津佳之さん
第12回日経小説大賞を『利生の人 尊氏と正成』で受賞された天津佳之さんに、作品への思いを語っていただきました。
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『利生の人 尊氏と正成』(日本経済新聞出版)
──この物語は、鎌倉末期から南北朝の動乱へと移りゆく時代の物語です。この時代の面白さからうかがわせてください。
権力を巡る争いとなると、たちまち日本全土を巻き込んだ時代だったということです。この後、応仁の乱を経て戦国時代になると、権力の単位が大名の領国になり、合従連衡でモザイク的にいろいろな勢力が各地に散らばるのですが、この時代はまだ、国の方向性が決まるときには、誰も傍観者ではいられなかった。力を得るには、幕府を選ぶのか、朝廷を選ぶのか、北朝を選ぶのか、南朝を選ぶのか。それ以前に、自分が生き残るために誰についていくべきか。情報もほとんどない中、ひとりひとりが絶えず決断しなければならなかったのです。
今を生きる私たちとも共通点があるように思います。あらゆる情報があふれ、個人で発信することも容易にはなりましたが、自分が社会のどこに立脚しているかが実感しにくく、先もなかなか見通せない時代です。個人の芯の部分があらわになるという意味では似ていますね。
南北朝の動乱は歴史のターニングポイント
──鎌倉幕府は、貴族による摂関政治が衰えて、各地の武士の集散によって成立しましたが、幕府は東で武士を束ね、西には帝がいる京都があった。北条得宗も征夷大将軍に皇族をかつぎました。この物語の後のことですが、足利三代将軍・義満の時代に武家によって権力がひとつになりますね。
後醍醐天皇が国を統治する親政が機能しなかったことが、天皇が権力から離れて象徴的な存在に変わったターニングポイントだと見ています。南北朝の動乱以降、社会の主役は完全に武士になりました。禅などの武家的な文化が発達していく一方、弱体化する公家は自分たちの文化の保全に向かいます。有職故実や古今伝授です。結果として、みやびな宮廷文化が純粋なかたちで後世に継承されることにもなりました。
──時計をこの物語の時代に戻しましょう。主人公は、足利尊氏と楠木正成ですね。
最初は「項羽と劉邦」のような「尊氏と正成」にしたいと考えていたのですが、書いていくうちにふたりを支える後醍醐天皇の存在感が高まりました。
──後醍醐天皇に対して、ふたりは長らく、忠臣=正成、逆賊=尊氏という対立の構図で語られてきました。この物語では3人が禅宗の同門だったという設定になっているのが新鮮です。
この設定は、実は小学生のころの記憶が元になっています。幼い頃から家族でよく京都に旅行したのですが、嵯峨野の天龍寺を訪れたときだったか、お坊さんが「尊氏と正成と後醍醐天皇は同門だったんだよ」という話をしてくれたんです。後になって調べてもそんな話はどこにも出てこない(笑)。さすがに子供だったので、そのお坊さんがどんな人で何を根拠に言っていたのか、今ではさっぱりわからないのですが、その記憶はずっと残っていました。
加えて、やはり子供の頃に読んだ日本史の学習まんがに掲載されていた、正成の息子・楠木正行の首塚である五輪石塔と、尊氏の息子・足利義詮銘の宝筐院塔が並んで建っている、嵯峨野の宝筐院の写真もずっと覚えていました。だから、私の中では『利生の人』のために着想した設定ではなく、もともとこう考えるのが自然だったんです。