10世紀には、アルメニア北部でバグラトゥニ朝が権力を握った。王のアショット3世(952~977年)は、アニを首都として選んだ。977年から989年にかけて、アショット3世の跡を継いだスムバト2世が、街の北側に円塔のある二重の城壁を築いた。シルクロードの一部を形成する交易路は、経路を変えてこの街を通るようになった。富を手に入れた支配者たちは、さらに多くの教会を建て始めた。
最初期に建てられた教会の一つであるアブガムル家の聖グレゴリオ教会は、有力なパヒラヴニ家の私用礼拝堂として建てられた。アニの多くの教会と同じく、その立地は意図的に選択され、かなり離れた街中からでも見えるようになっていた。
11世紀初頭、アニはガギク1世の統治のもとで繁栄し、赤、黄色、黒など、多様な色彩を持つ地元産の玄武岩を使って、より多くの教会が建てられた。偉大なアルメニア人建築家トゥルダトの手による堂々たる大聖堂のほか、3つの教会が、11世紀前半、この街の城壁を見下ろしてそびえ立った。その教会のうちの一つである救世主教会の円屋根は、完全な円形の基部の上に載っており、その内部には聖十字架(イエスのはりつけに使われたとされる聖遺物)の欠片が収められていた。
1064年に、セルジューク人が攻め入ってきた。これ以降、アニは外部諸勢力の支配を受けるようになっていく。11世紀末には、そうした勢力の一つであるイスラム系のシャッダード朝の支配下で、マヌーチヒルのモスクが建造された。キリスト教徒による支配はジョージア(グルジア)王国のもとで再開され、この時期にさらに多くの教会が建てられた。1215年に建造されたティグラン・ホーネント(アルメニア人寄進者)の聖グレゴリオ教会もその一つだ。
13世紀になると、アニはモンゴル人の略奪を受け、これをきっかけとして衰退に転じる。交易路が別の場所へと移ると、商人もアニを離れていった。そして1319年、アニは地震で大きな被害を受ける。ペルシャ人のサファヴィー朝に一時支配された後、16世紀にはアニは正式にオスマン帝国に吸収された。その後、人々が去り、アニはゴーストタウンとなった。
希望と絶望
1878年、ロシア帝国がアニの周辺地域を占領した。カー・ポーターやウィルブラハムらによる発見があったことで、ロシアは、東方キリスト教にとって重要だったアニに強い関心をもつ。1890年代には、ロシアが支援する、ジョージア生まれの学者ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マル率いる調査団によって、古都アニの発掘が行われている。

マルが先鞭(せんべん)をつけたこの調査は1917年まで続けられ、橋や道路がかつては川の上にそびえる峡谷にかかっていたことなど、アニの壮大な歴史の一部が明らかになった。
しかし、近代のアルメニアはロシア(後のソ連)とトルコが、アニ周辺の土地をめぐって争った戦争によって、引き続き苦しめられた。1915年に始まったオスマン帝国によるアルメニア人の虐殺――オスマン帝国はアルメニア人がロシア側に味方していると考えていた――は、100万人(150万人とも言われる)もの命を奪った(多くの歴史家が、近代世界で最初のジェノサイド=民族大量虐殺=としている)。
20世紀後半、アニはまたもや地政学的な断層線上に戻る。このときはNATO(北大西洋条約機構)に属するトルコと、ソビエト支配下にあるアルメニアの間の国境争いだった。現在、アニはトルコ領とされ、アルメニア人は異を唱える。2016年、アニの古代遺跡はユネスコの世界遺産(文化遺産)に加えられた。
時の流れの中で繰り返し軍隊が押し寄せてきた、この静寂に満ちたアニの遺跡は、アルメニア人にとっては常に特別な場所だった。アルメニア人虐殺の後、この場所は以前にも増して、アルメニアが失ったものとその驚くべき不屈の精神を今に伝える力強い証となっている。
次ページでも、かつての栄華を思い起こすことも難しい、打ち捨てられた王都の今と遺物をご覧いただこう。