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U22
震災10年・離れて今

2021/3/11

震災10年・離れて今

――価値観や生き方は変わりましたか。

「だいぶ変わったと思います。当たり前の日常がどんなに幸せなことなのかと。地元に戻ってきてからの学校生活も、失ったことが多かった分、楽しもうという気持ちで過ごしていました」

――救護団体である日本赤十字社に就職されたということは、震災は進路の考え方にも影響したのでしょうか。

「震災後しばらくたってから知ったのですが、第1原発から近い双葉郡の病院で避難行動が混乱し、搬送中や搬送先の施設で入院患者ら多数の方が亡くなりました。救えたはずの多くの尊い命が失われたこの事件は強く印象に残っており、災害時に役に立てる人になりたいと思うようになりました。大学は災害・復興政策を学びたいと思い政治学科を選びました」

――中島さんの身近でも、そういう経験があったのでしょうか。

「母方の祖父は小高区にあった家に帰還できないまま亡くなりました。元気と健康が取り柄のような祖父でしたが、震災後にがんが見つかり13年6月に亡くなりました。近所に住んでいた祖父と同世代の人たちも、帰還できないまま避難先などで亡くなった方が多かったです」

「特に、子供や高齢者、障がいのある弱い立場の方々は、災害など有事の際に社会から取り残されがちです。震災を経験した自分だからこそ、災害で苦しんでいる人々の立場に立って支援できることがあると思い、今の道(日本赤十字社)を選びました」

たくさんの人が集う明るい故郷を、いつか

――大学進学で上京されました。東京から地元はどのように見えましたか。

「上京して、いろんな意味でショックを受けました。地元では復興しようと頑張っている最中なのに、東京はきらびやかなネオンが輝いていて……。離れて見た故郷は、やはりどこか取り残されてしまっているような感覚が、私の中にずっとありました」

――震災から10年、故郷の見方に変化はありましたか。

「最近思うのは、光と影に分かれているなと。避難指示が解除されて少しずつ人々のなりわいが戻ってきている地域がある一方、(福島第1原発が立地する)大熊町や双葉町などはほとんどが帰還困難区域になっていて、大きな隔たりがあるなと感じます。人が戻らない地域は、やはり見ていてさびしいですよね」

「(祖父母の家があった)小高区の居住人口は震災前の3割程度で、そのほとんどが65歳以上。超がつくほどの限界集落です。若い人たちの多くは避難先に定住していきました。20~30年先をしっかり見据えた政策をうっていかないと、将来の地図から南相馬が消えてしまう、そんな危機感を持っています」

日本赤十字社の本社前で(2021年2月)

――南相馬市出身の20代として、どう生きたいですか。

「これまでたくさんの方々にお世話になったので、恩返しをしたい。特に今は日本赤十字社にいるので、災害で苦しむ人を何かしらの形で救いたい。まだ現場に行ったことはないですが、20年の7月豪雨では義援金の立ち上げに携わることができました。被災地と、被災地を助けたいと願う人たちをつなぐパイプ役になれたらという思いで仕事をしました」

「いずれは福島の復興に携わりたいなと考えています。私は、復興は30年、40年でも終わらない、次の世代にも関わってくることだと思っています。ここまで復興したんだぞって言えるぐらい明るい故郷を同世代の仲間ともう一回つくって、次の世代にバトンを渡したいですね」

(聞き手は安田亜紀代)


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