2021/2/28

紀元前31年にマルクス・アントニウスに勝利した皇帝アウグストスが、百年に及ぶ内戦によって破損した道路を修復する任を引き受けたが、その後紀元前20年には、道路管理官(curatores viarum)を任命して、請負業者の選択や、工事と維持の管理を任せた。建設事業にかかる費用は税金や通行料で賄ったが、民間から寄付を集めたり、皇帝が私財を投じたりすることもあった。例えば、アッピア街道のベネウェントゥムからブルンディシウムまでの区間に新たに作られたトライアナ街道は、第2代皇帝トラヤヌスが資金を出した。街道が通過する町も、維持費を負担するよう義務付けられていた。

街道の建設

どこに道路を通すかを決定する際には、まず地元の地形を調査し、住民からの情報を集めた。通行しやすいように、道はできるだけ緩やかな傾斜を通り、平たんな場所では直線に作るのが良いとされた。アッピア旧街道の場合、ローマとテッラチーナの間には、90キロにわたる直線区間があった。

スペイン北西部、オスマからガレイを結ぶローマ街道の断面(JOSE LUIS FERNANDEZ MONTORO. GRUPO DE ARQUEOLOGIA EXPERIMENTAL ARECO S.L.)

丘陵地帯では、アップダウンを少なくするために、切り通しや橋を作った。山を通る道は大きなカーブを描き、地形に合わせて傾斜が均一になるよう気を使った。高山地域では、急カーブやトンネルを作ることもあった。道路は、日光がよく当たる東側や南側の斜面に作られることが多かった。冬に雪が降っても、早く解けて通行を再開できるようにするためだ。

建設の委託は、民間の請負業者が参加できる公開入札によって決められた。工事には労働者を雇ったが、奴隷や強制労働の刑に服役する受刑者を使うこともあった。軍のエンジニアが設計や現場の指揮に当たることもあり、軍事作戦の一環として道路が必要な場合や、征服した領土では、兵士が工事に駆り出された。

材料は近くの採石場から運ばれたが、採石場がない場合は外国から輸入された。道を造る前に、木を切り倒し、岩などの障害物を撤去する。次に土壌を排水し、雨水を迂回させるための水路を作る。道路に溝を掘って、大きな石を並べる。水はけをよくするために、石は隙間を開けて置かれた。その上に中サイズの石を並べることで大きな隙間を埋め、さらにその上に砂と砂利を敷き詰めた。

こうすると、表面が滑らかになって馬車が通りやすくなる。また、何層にも石を重ねることで、道路は周囲の地形よりも高くなる。それをさらに締め固めるために、水と大きな石のローラー、「タンパ」と呼ばれる専用の道具を使ってならした。道の両側には縁石が置かれ、その横に、雨水を排水するための側溝が掘られた。

最後に、マイルストーン(里程標)として円筒形の石柱を、街道の1ローママイル(1000歩、約1.5キロ)ごとに配置した。高さ2.4メートルのマイルストーンには、距離を示す数字や、建設に貢献した人物の名前が刻まれていた。

当時の建設技術は、18世紀に入ってから再び採用されるほどに優れていたため、どこの部分が古代ローマ時代に作られた道なのか見分けがつかないことすらある。古代の兵士、百姓、商人は「カリガ」と呼ばれるサンダルを履いていた。靴底には、皮を保護するために鋲(びょう)が打ち込まれていたが、この鋲が抜け落ちて、道路に刺さることがよくあった。現代の考古学者は、この鋲を頼りにローマ時代の遺跡を探すという。

ローマ神話の神メルクリウスは、商人、金融業者、旅人の庇護(ひご)者。写真は紀元前4世紀の青銅の像。パリ、ルーヴル美術館所蔵(ERICH LESSING/ALBUM)

次ページでも、帝国の枠組みを作った32万キロのローマ街道の現在の姿、それを支えた建設技術を写真でご覧いただこう。

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