メンタルヘルスと新型コロナ 米、精神医療に迫る危機
プレストン・カドレック氏は疲れ果てていたが、自宅には帰れなかった。2020年11月中旬のことだ。34歳のセラピストであるカドレック氏はノースイースタン・カウンセリング・センターの日勤を終えたものの、救急チームの仕事に移るところだった。
センターがあるユタ州のルーズベルトは人口約7000人の小さな町だが、カドレック氏を含め、セラピスト8人だけでメンタルヘルス(こころの健康)の救急対応を担っている。誰かを家から町の病院まで運ぶため、車で65キロ以上移動することも珍しくない。11月中旬のあの夜、カドレック氏がいなければ、1人の救急患者が専門家の助けなしに厳しい試練と向き合うことになっていただろう。
大都市以外で働く精神医療の従事者にとっては、カドレック氏の例はよくある話だ。精神科救急は担い手が少なく、ただでさえ負担がかかっているにもかかわらず、ニーズが高まっている。都市を除く米国の大部分では長年、需要が供給を大きく上回っており、「メンタルヘルスケア砂漠」と呼ばれる現象が起きている。何時間も車を走らせなければ、専門家の治療を受けられない地域もある。ガソリン1リットルが貴重な貧困者にとってはまさしく死活問題だ。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的大流行)は遠隔医療を促進し、メンタルヘルスの不安を理由に助けを求めることが普通のことになるよう努力が続けられている。それでも、精神医療従事者の不足という根本的な危機には対処できず、治療を必要とするすべての人には対応できていない。ボランティアは頼みの綱になっても、訓練を受けた専門家の代わりにはならない。人材不足は国が一夜にして解決できる問題ではない。
全米精神疾患患者家族会の最高医療情報責任者ケン・ダックワース氏は「精神保健福祉士になるには8年かかります」と話す。
非営利団体メンタル・ヘルス・アメリカの21年の報告書によれば、ユタ州は成人のメンタルヘルスケアの受けやすさで全米最下位にランクされており、農村部が多いワイオミング、アイダホ、アラスカ、ミシシッピなどの州も下位3分の1に入っている。主な要因は治療者の数が少ないことで、医療機関までの移動距離、貧困、保険に加入していないことなどが問題を複雑化している。
このような背景があって、カドレック氏は夫婦、家族関係のカウンセラーとしてクリニックで長い一日を過ごした後、時には車で町を走り回り、長い夜を過ごすこともある。こうした追加業務はセラピストたちのメンタルヘルスにも負担となっている。
ノースイースタン・カウンセリング・センターのセラピスト兼管理者のトリシア・ベネット氏は「彼らにとっては、救急対応の仕事がいちばん大変です」と語る。「患者と一緒に救急救命室(ER)に行くこともあれば、人命にかかわる大きな決断を下すこともあります。さらに、私たちは人々の話を聞きます。人々がトラウマを克服する助けをしなければならず、それが私たちのトラウマになることもあります」
パンデミックで広がる格差
メンタル・ヘルス・アメリカの公衆衛生プログラム責任者で、先の報告書の執筆にも参加したマディー・レイナート氏は「新型コロナウイルス感染症の以前から、成人の精神疾患の有病率と自殺念慮の増加が見られました」と話す。複数の連邦当局のデータによれば、11年以降、医療が行き届いていない成人の精神疾患患者は増加の一途をたどっている。
問題の一部は費用だ。精神医療が受けられる地域でも、医療費あるいは保険に加入していないことが受診の妨げになる。ノースイースタン・カウンセリング・センターを含む多くの医療機関が無保険者向けに収入に応じた支払いオプションを用意しており、1回5ドル、場合によっては無料で受診できるようになっている。ただし、こうした解決策は広く採用されていないのが現状だ。
フロリダ、ジョージアなどの南部をはじめ、メディケイド(低所得者層を中心とした公的医療保険制度)が広まっていない州に暮らす人々は、手ごろな費用で医療を受けられるチャンスが少ないとレイナート氏は説明する。経済政策研究所によれば、この格差はパンデミック(世界的大流行)をきっかけに拡大している。米国では20年2月から8月の間に、1200万もの人々が雇用主が提供する医療保険を失った。
そして、20年晩秋。ユタ州ではCOVID-19の感染者が急増し、医療機関が治療の制限を余儀なくされた。その結果、精神医療従事者は緊急警戒態勢に入らざるを得なくなった。ノースイースタン・カウンセリング・センターのような地方のクリニックから精神疾患患者家族会のような全米規模のNPOまで、あらゆる専門家の仕事量が増えた。
これらの困難に加え、現在、パンデミックと関連した臨床的に重大なメンタルヘルスの問題が増加している。米疾病対策センター(CDC)の20年8月の報告書によれば、同年3月以降、米国民の40%以上が不安、抑うつ、自殺念慮、薬物またはアルコール依存の悪化といった精神面、行動面の問題を経験している。精神疾患の有病率としては、例年の2倍近い数字だ。
最も影響を受けているのは若者、マイノリティー、社会経済的な弱者、無給の介護者、現場の労働者、精神疾患の診断を受けたことがある人々だ。しかも、これらのグループはほかのグループより頻繁に薬物やアルコールの使用によって対処しており、さらに問題を悪化させている。
「人々にとって、孤立はつらいものです」とダックワース氏は話す。「不確実性もつらいですし、冬がつらい人もいます。人々は苦しんでおり、医学的に重大な局面に立たされています」
受診のハードルは下がったが
米国で現在続いているメンタルヘルスを取り巻く議論のおかげで、かつてその診断に付きものだった悪いイメージは薄れてきている。その結果、一部の人が必要な助けを求めることを妨げてきた文化的な障壁は下がっている。
「メンタルヘルスのために助けを求めることは今や、かなり普通のことになっています」とダックワース氏は話す。「将来的には、メンタルヘルスの不安を抱える人々が特別な人と見なされることもなくなるかもしれません」
パンデミックが到来したとき、精神疾患患者家族会への電話相談は3倍まで増えた。ほかの電話相談サービスも同様の増加を経験している。
遠隔医療や電話による診療は医療を提供する側と地方に暮らす患者の距離を縮めたが、この新しいつながりは万能薬とは程遠いとダックワース氏は話す。連邦通信委員会のデータによれば、米国には十分なインターネット接続を持たない人が4200万人もいる。そうした人々にとって、遠隔医療はほとんど役に立たない。
一方、人口増加に伴う需給のミスマッチは悪化の一途をたどっており、かつてないほど多くの人が対処に苦慮している。供給側の増強もそれほど進んでいない。
米国立精神衛生研究所で精神医療の格差の研究を率いるデニス・ジュリアーノ・バルト氏は、サービスが行き届いていない地域でセラピストの採用を強化するしかないと考えている。「最も必要とされる場所で働くことに魅力を感じる人が少ないように見えるため、何らかの報酬が必要だと思います」。米公衆衛生局士官部隊(USPHSCC)を拡大すれば、残された不足分を埋められるかもしれないとジュリアーノ・バルト氏は提言する。
USPHSCCは1798年、海員病院基金として設置された。その目的は時代とともに変化していったが、現在、十分な医療を受けられない人々に対する医療の提供など、米国の生物医学的な取り組みを支援するために存在している。
公衆衛生局は今後数年間で救急医療の提供者を2500人増やしたいと考えているが、特にメンタルヘルスケア砂漠では、この数字は全体的な需要と懸け離れている。米国がこの危機を好転させたいのであれば、精神医学とカウンセリングを専門とする救急医療提供者を追加して採用する必要があるだろう。
現在のところ、そのような計画はないが、希望はある。米大統領が20年12月27日に署名し成立した9000億ドル(約93兆円)規模の景気刺激策には、米国で進行中のメンタルヘルスの危機に対処するための42億5000万ドル(約4400億円)が含まれている。
とはいえ、いくら予算があっても、何万人ものセラピストが突然現れるわけではない。メンタルヘルスホットラインのボランティアから地方のセラピスト、家族を介護する人々まで、米国民は互いに助け合い、終わりの見えないパンデミックという荒野に対処しようと最善を尽くしている。
(文 REBECCA RENNER、訳 米井香織、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2021年1月9日付の記事を再構成]
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