外国人神父から異文化吸収 隈研吾氏の栄光学園時代
建築家・隈研吾氏(上)
建築家の隈研吾氏
国内外で多数のプロジェクトに携わる、日本を代表する建築家の隈研吾氏。鉄やコンクリートで固められた巨大な建造物とはひと味違う、木や竹など自然素材を活用した建築は世界的な評価を得ている。隈氏はカトリック系の中高一貫の男子進学校、栄光学園中学・高校(神奈川県鎌倉市)の出身だ。「栄光に通っていなければ、今のような建築家になっていない」と語る母校で、どんな体験をし、何を学んだのか。
栄光中学に入学する前は「外国人の神父はおっかないのだろう」とビビっていた。
栄光はイエズス会が運営する男子校で、当時は教員としてスペインやメキシコ、ドイツ、米国など10人以上の外国人の神父がいました。神父と言えば、生涯独身を貫く厳格な聖職者というイメージ。しかし、いい意味で裏切られました。日本人の大人よりむしろ人間くさく、フレンドリーで、アメリカンフットボールなどでよく遊んでくれたりしていました。
スペイン北部のバスク地方出身の神父はあまりにも日本語が上手なので驚きました。バスクには独自の言語があり、日本語とも似ているという説もあります。多様な文化を自然に吸収しました。神父たちは家庭訪問と称してよく実家にも遊びに来てくれました。父や母は異文化への好奇心が強かったので、居心地が良かったのかもしれません。うちでビールをガンガン飲んだり、風呂まで入っていったりしました。
私は東京・田園調布の小学校に通っていました。小学4年生のとき、1964年に東京五輪が開かれましたが、丹下健三さんが設計した国立代々木競技場に衝撃を受けて、建築家を志しました。高度成長期の日本では巨大な建築物を次々つくる丹下さんや黒川紀章さんなどの建築家は憧れの的でした。
両親の意向もあり、中高一貫の私立校を受験、栄光と麻布中学(東京・港)に受かった。
麻布を志望する友人が多かったのですが、父は「お前は都会より田舎の学校の方がいい」と栄光を勧めました。緑にあふれ、グラウンドの広い学校だと気に入っていたこともあり、入学を決めました。