サッカラの墓地群に残された絵画の研究からは、画家たちは「キャンバス」の表面になめらかな石膏(せっこう)を塗ってから絵を描き始めていたことも明らかになっている。これらの絵の統一性とスタイルに衝撃を受けたのが、19世紀のエジプト学者カール・リチャード・レプシウスだ。彼は、墓の絵がマス目を利用して描かれていることに気づいた最初の人物だった。

色づくり

エジプトの芸術家たちは、身の回りにある素材から絵の具を作っていた。黒の材料は炭、すす、焼いた骨だった。黒という色は、生と死の両方に関連していた。青は豊穣(ほうじょう)と誕生を象徴し、緑は死後の世界に使われ、どちらも銅の酸化物から作られた。黄色(太陽)と赤(火あるいは危険と破壊を象徴)は、砂漠に豊富にあった黄土から採取された。

これらの物質はまず粉状に砕かれ、水と少量の植物性樹脂を加えられた。蜜蝋(みつろう)と卵白の主なタンパク質であるアルブミンは、固定剤として機能した。画家たちは漆喰やパピルス、木材に装飾を施す際、まずは泥や石膏を塗って表面の下処理した。絵を描く道具は、筆記者が使うようなアシの茎だったが、絵の具を多く含ませられるよう、先端は斜めにカットされていた。

画家たちは、階級制度のある工房に所属していた。絵はチームで協力して描かれ、一人が全体の構成を決定してから、ほかの人々がレリーフを彫り、仕上げの彩色を施した。

革命と回帰

ピラミッドの時代が終わりに近づくと、エジプトは過渡期に入り、やがて紀元前1975年ごろ、後に中王国として知られるようになる王朝が成立した。伝統的な絵画のスタイルは相変わらず多用されたが、よりすっきりとしたシンプルなデザインが好まれるようになった点にわずかな進化が見られた。

紀元前1539年に興ったエジプトの新王国は、拡大と帝国主義の時代だった。王家が造る巨大なモニュメントや宮殿、神殿は、芸術家たちにとって広大な「キャンバス」となった。

この成長の時代に、エジプトはアクエンアテン王の主導により、宗教的・芸術的な革命を経験する。アクエンアテンは旧来のエジプトの神々を排斥して、人の形をとらず太陽円盤で表されるアテンを唯一神とした。都がアマルナに移されたことから、アクエンアテンの時代に生み出された芸術は「アマルナ様式」と呼ばれる。人間はそれまでの伝統的なスタイルとは異なる、細長い頭、官能的な唇、突き出た腹、細い脚で表現された。

アクエンアテンの死後、彼が主導した宗教と芸術は放棄され、芸術家たちはすみやかに伝統的なスタイルと旧来の神々へと戻っていった。

第19王朝時代(紀元前1292~1190年)の、センネジェムという名の職人の墓に描かれた壁画。来世の畑で、夫婦が力を合わせて穀物を収穫している(ARALDO DE LUCA)

アクエンアテンの息子であるツタンカーメンは、生まれたときはツタンカーテン(アテンの似姿)と呼ばれていた。後にツタンカーメン(アメンの似姿)と改名されたが、ここからはエジプトがいかにすばやく旧来のアメン神の優位性を回復させたかがわかる。

ツタンカーメンの治世は、父親のアクエンアテンの死後数年しか続かなかったが、彼の有名な墓を彩る絵画を見れば、古い神々と古い様式が急激に復活していたことは明らかだ。

再度確立された伝統的な様式は、エジプト帝国の覇権を広く知らしめる手段となっていった。エジプトは、セティ1世およびラムセス2世の治世によって新たな高みに達した。この時代の墓は、神々の腐敗することのない肉体と関連する、豊かな金色に輝いていた。新王国時代のセティ1世と王妃ネフェルタリの墓には、来世の様子が事細かに描かれている。

ネフェルタリの顔には陰影が付けられ、奥行きが表現されている。エジプト絵画にはあまり見られない手法だ(ARALDO DE LUCA)

エジプトの特徴的な芸術は、紀元前332年にアレクサンドロス大王がエジプトを征服した後のプトレマイオス時代まで続いた。クレオパトラをはじめとするその後の指導者たちは、エジプトの輝かしい過去を踏襲し、数世紀前のファラオたちと同じスタイルで自分たちの姿を描かせた。

次ページでも、古代エジプトの遺産に残る、エジプト芸術を支えた独特の様式美の数々を、ご覧いただこう。