子育ての想定外が道開く 流れ着いた先が最高の場所にジェンダー・国際協力専門家 大崎麻子さん

2020/9/19

夏休み中に国連でインターンを経験し、その後ユニセフを紹介してもらいました。1990年代は内戦が増えた時期で、国連は武力紛争が子どもに与える影響の報告書を作るためユニセフに実態調査を指示していました。国家間の争いは軍人同士の戦いですが、民族・部族間の争いは相手を滅ぼすことが目的ですから血で血を洗う戦いになります。当然、女性や子どもも標的になります。ユニセフの本部には子どもがどのような被害に遭ったかという報告が24時間送られてきました。これを案件ごとに分類するのが私の仕事です。地雷被害、レイプ、目の前で親が殺されたトラウマ――。当時2歳だった息子と重なり、毎日報告書を読みながらワンワン泣きました。とても続けることはできません。

次に紹介されたのが国連開発計画(UNDP)です。その後職員となり、主にジェンダー担当部署で、1997年から8年間、世界各地で女性のための教育や雇用、政治参加を支援しました。海外出張のときは前夫に預けることもありましたが、アジア出張なら息子と一緒に成田まで行き、実家に預けてから現地で仕事して帰りに成田でピックアップしてNYに戻ることもありました。

娘がつないでくれた「村のお母さんネットワーク」

2002年に娘を出産したときは、両立支援制度を活用しました。世界保健機関(WHO)やユニセフが2歳までの母乳育児を推奨していることもあり、子連れで出張する場合は娘にも出張経費が支払われます。幸い娘は健康だったので、生後8カ月ごろからカンボジアやタイ、中国、フィリピンなどあらゆる仕事先に連れて行きました。私が1人で現地を訪れると「NYから来た国連の人」といったよそよそしさがありますが、娘を抱っこして訪れたら村のお母さんたちと一気に打ち解けます。しかも子育てのアドバイスまで。現地の女性たちとフラットに話せる関係が築けたのは娘のおかげです。

子連れで海外出張のときはいつも大きな荷物を抱えていた。2003年のカンボジア出張の際は妹も同行してくれて助かった(プノンペン空港で、本人提供)

内戦が終わって間もないカンボジアにも行きました。男性は戦死しているか、生きて戻ってきても身体に障害を負っていたり、精神的なトラウマを抱えたりしています。復興の中心に立つのは女性。地雷があれば大けがをするけれど、家族のために水をくみ、農作業をしていました。そして稼いだお金は子どもを食べさせるため、教育を受けさせるために使います。子どものためには何でもするという母親の執念を感じ、同じ母として彼女たちをサポートすることが次の時代につながるのだと強く感じました。生まれた場所と時代や環境が違うだけで、同じ女性・同じ母親でも全く違う経験をするわけです。自分自身が女性であり母親であったこと、そして娘を産んだことによって自分のこととして取り組むことができました。

ただ、子どもが2人になったことで子育てのハードルが一気に上がったのも事実です。1人と2人では負担が全く違います。毎朝、大きな荷物を持って慌ただしく家を出て、娘を保育所に預け、息子を小学校に送り、コーヒーを買って職場に着いたらハァー、って一休み。仕事中は自分のことだけ考えればいいので超ラクです。夕方になると走って2人の子どもを迎えに行き、息子をサッカーの練習に送り届けたら娘とタクシーで帰宅して夕食の準備。その後また息子を迎えに行って3人で帰宅するという日々です。体力的には一番キツイ時期でしたが、仕事を辞めるという考えはありませんでした。

年は離れているが、娘の運動会や学芸会など学校行事には息子が必ず来てくれた(2009年秋、本人提供)

国連を辞めたのは、前夫が日本に転勤になったから。少し悩みましたが、アスターという当時の女性上司に「仕事はいつでも戻れるけれど、子育てはあっという間だから子どもの成長に寄り添うのもいい」と言われ、4人で帰国することを決めました。ジェンダーの専門家として8年間キャリアを積んだので、どこへ行っても生かせるだろうという思いもありました。ただ、帰国後まもなく離婚することになったのは想定外でした。

注目記事
次のページ
家は「子どもが安心できる場所」
今こそ始める学び特集