――北京五輪の4×100mリレーでメダルを獲得した後、無期限の休養を宣言され第一線から退かれました。こうした考え方になったのも、このときの休養宣言の影響があるのでしょうか。
そうですね。2003年のパリで開催された世界陸上で、世界大会短距離種目で日本人初の銅メダルを獲得して以降、「五輪でも日本人初のメダル獲得」という国民の期待を感じました。しかし、2004年のアテネ五輪では、リレーは4位、個人では決勝に残れず、結果が出ないことに周り以上に僕自身ががっかりしたんです。そのプレッシャーが大きくのしかかり、原因不明の手の震えを覚えたりしました。
2008年の北京五輪ではリレーでメダルを獲得しました。うれしい気持ちもあったけれど、それ以上に「日本代表として五輪の舞台でメダルが取れてよかった…」とほっとするような安堵の気持ちが大きかったですね。重責を果たす経験を若いうちにしておくのは必要かもしれないけれど、僕はその後、気持ちが崩れてしまいました。親や恩師と話すと涙があふれてきて、手の震えが止まらず、無期限の休養宣言をしてしばらく地元熊本に帰りました。
メダリストはどこまで頑張らなければいけないのか
――そのときどんな気持ちだったのでしょう。
何でこんな気持ちにならなければいけないんだと思いました。世界レベルの大会で2個のメダルを取ったのに、期待されていた五輪での個人種目がダメだったから、こんな惨めな気持ちにならなければいけないのかと。もっと頑張らなければいけないという、僕には圧に近い周囲の期待もしんどかった。メダリストはどこまで頑張らなければいけないのだろうと思ってしまいました。

――競技から退くのではなく、休養を選んだのは?
こんな状態だったら、普通なら競技をやめればいいと思いますよね。そこは九州男児の血なのか、気持ちは弱っているけれど、「絶対やめない」という悔しい気持ちも正直あったりして…。面倒臭いところがあります(笑)。
――休養宣言の後、どんな生活をされていたのでしょうか。
当時所属していたミズノにお世話になりながら、ごく普通の一般人の生活を送っていました。とにかく走れませんでした。走りたいと思えないし、走ろうと思ってもグラウンドに行けませんでした。無理に行ったら、手が震えてくるんです。
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この後、末続さんは休養宣言をし、無期限の休養に入る。その期間をどのように過ごし、9年後の復帰に至ったかを次回記事で紹介する。
(ライター 高島三幸、写真 厚地健太郎)
[日経Gooday2020年5月11日付記事を再構成]
