感染拡大防止へITで行動追跡 プライバシー守れるの
新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐため、情報技術(IT)を駆使して個人の行動を追跡する試みが広がっています。スマートフォンを使ってユーザーの行動を把握しようとする国や地域は多く、監視カメラや全地球測位システム(GPS)を組み合わせる例もあります。日本でも近く、濃厚接触の可能性を知らせるスマホアプリの提供が始まりますが、プライバシー保護との両立など課題も指摘されています。
中国では感染拡大の初期から、感染者と接触したことを警告するシステムが武漢市などで使われました。スマホアプリを使ったものですが、顔認証機能が付いた大量の監視カメラを組み合わせ、感染可能性のある人間を探し出したとされます。
感染の広がりとともに、個人追跡システムも世界各地で使われるようになりました。ただ、その仕組みや運用の仕方は国や地域によって異なります。
台湾や韓国、ロシアではGPSを使って詳細な位置情報を取得できる仕組みを構築しています。これに対してシンガポールや欧米諸国では、スマホで使える近距離無線のブルートゥースを利用して、接触者を記録・通知する方式を選ぶところが目立ちます。この方式は利用者の匿名化が容易なためです。米アップルと米グーグルが共同開発するスマホ用追跡アプリもブルートゥースを使います。
日本が導入するシステムはシンガポールがモデルです。専用アプリをインストールした人同士が一定時間以上接近すると、その情報をお互いのスマホに蓄積しておきます。感染者が出た場合、情報をさかのぼって接触の事実がわかる仕組みです。
情報化社会を研究している慶応義塾大学教授の大屋雄裕さんは、こうしたITによる行動追跡について、情報の「後ろ向き利用」と「前向き利用」を区別すべきだといいます。
後ろ向き利用とは、感染が判明した人との接触履歴を追跡する場合のように、既に確定した事実をもとに情報を利用することです。一方、前向き利用とは、データに基づいて感染の可能性が高い人々を推定して網をかけるようなやり方です。「情報の前向き利用は、根拠となる推定が間違っていることもあるため、注意して扱う必要がある」(大屋さん)といいます。
中国や韓国でITによる個人追跡システムが効率よく機能している背景には、スマホ普及率の高さや、「監視アプリ」を使うことへの心理的な抵抗が弱いことがあるとされます。日本で導入するアプリは利用が任意となるため、利用者数が増えない場合、その効果が限定的なものにとどまる懸念もあります。
大屋雄裕・慶応義塾大学教授「社会のあり方を問い直す機会に」
新型コロナウイルス感染症対策としてスマートフォンアプリなどの個人追跡システムを使う際、どのような点に留意すべきか。個人プライバシーと感染症対策の実効性のバランスをどうとるべきか。情報化社会や監視社会を研究する大屋雄裕・慶応義塾大学教授(法哲学)に聞きました。
――各国が進めている、スマホや監視カメラなどを使った個人追跡の試みをどう評価しますか。
「感染者をできるだけ早期に見つけて隔離・治療するのが対策の基本なので、スマホの監視記録アプリや防犯カメラの分析、あるいは濃厚接触者の聞き取りが感染症対策として有効であることは間違いない。問題はこうした対策が一定レベルを超えると過剰なものになってしまうことだ。検査結果が判明するまで隔離することを必要最小限のレベルとすると、それ以上の施策をとれば感染封じ込めの効果は高まる半面、感染者でないのに隔離される人が増えてしまう。この必要レベルが満たされるかということと、過大な犠牲を強いていないかという両面を見る必要がある。このバランスをとるのが非常に難しく各国とも苦労していると思う」
――スマホアプリの場合はどうですか。
「スマホアプリ利用はオプトイン、つまり利用者の事前同意を前提としている。このため本来必要な人が協力しない可能性があり、必要最小限を満たすのに有効なのかという点で不安が残る。ただ形式上オプトインであっても、権威主義的な国が全員に導入を促すなど社会的に強い圧力が働けば機能するかもしれない。そして機能すればするほど逆側の境界、つまり過剰な対策にならないかという問題が生じる。スマホアプリなどで接触履歴を追跡するわけだが、誰と会ったかという情報は人によっては非常にセンシティブだ。しかしそれを追跡しないと他の人々の人権が損なわれる危険性があるというのが根本にある問題だ」
「追跡システムを導入する場合、情報の『前向きの利用』と『後ろ向きの利用』を区別して考える必要がある。後ろ向き利用は、既に確定した過去の事実を探求することだ。ある人が検査で陽性とわかった、そこで濃厚接触した人を教えてくださいという形で調べる。一方、前向きの利用は、こういう人たちは感染してそうだから網をかけようという方法だ。例えば感染源とされる場所に行った人とか、夜の街で働いている人は感染の可能性が高いのでみんな検査をしなさいと言って引っ張ってくるやり方だ」
「後ろ向き利用の場合は、過去の事実は確定しているのでいわゆる『誤爆』は起こりにくい。むしろ今回のスマホアプリのように記録が増えるほど誤爆の可能性が低くなり、追跡の結果特定された人が検査を受けて、早期治療の対象になることはその人の利益になる。これに対して、前向き利用の場合は誤爆の可能性がどうしても残るし、当事者にとっての利益も確定しないので、注意が必要だ」
「問題なのは、スマホアプリがまさにそうだが、後ろ向き利用で精度の高い記録を残そうとすると、ドライブレコーダーで延々と映像を撮影するのと同じように、情報を前向きに残す必要があることだ。この点に関して、シンガポールは後ろ向きの情報だけを利用すると表明している。前向きの記録は個々人のスマホにしか残さず中央サーバーには送らない。スマホユーザーの感染が発覚した段階で合意をとってスマホから情報を吸い上げる」
「中国の場合は、もともとプライバシーについての合意があまり重視されておらず、前向き利用と後ろ向き利用の区別が明確になっていないと思われる。前向きだろうが後ろ向きだろうがどんどん使ったほうが網によくかかると考えているようだ。防犯カメラによる追跡でも、感染が確定した人が出た後で情報を利用するのならいいが、実際には、感染していそうな人間を探すためにも多分使われている」
――感染者追跡アプリを日本に導入する場合の課題は?
「西欧諸国と同様、個々人の自由や人権を尊重するため、対策としての有効性が過少になってしまう危険性はぬぐえない。濃厚接触の心当たりのある人がアプリをインストールしないとか、情報提供を拒否するようだと実効性が低くなる。接触情報を近距離無線通信のブルートゥースで記録するといっているが、ブルートゥースをオフにすれば追跡をかわせると考える人も出てくるかもしれない」
――コロナ禍を機に非常時の政府の役割についての見方は変わると思いますか。
「ある程度変わるだろう。特にアメリカ型の個々人の自己決定を尊重してきた社会では、あれだけ人が亡くなるというダメージが果たして引き合うものなのか、という問題に直面することになる。自由とか自己決定とかいっても、結局は『不幸になる自由』でしかなかったのかと。これに対して『幸福になる不自由』あるいは『幸福を保証する服従』というのが中国モデルだ。中国は今回問題にされた情報隠蔽体質についてある程度反省しつつも、国家の強制権を前面に出した昔ながらのやり方に自信を深めるのではないか」
――日本での議論はどう進みそうですか。
「海外からみて日本の動向は謎だろう。例えば欧州は非常事態の下ではロックダウンのように国家の強制権を認めて個々人の自由は認めない方向にかじを切ったが、日本は自粛要請にとどめている。皆さんで考えて行動してくださいと。それで今のところは亡くなる人も少なく感染対策のパフォーマンスはいい。海外では『個人の自己決定』と『集団的な幸福』をどうバランスさせるかという議論をしているのだが、その議論の軸から外れた変なものがあるという感じに見られている。今後の感染状況は不透明だが、我々は今回の事態を機に社会の在り方を問い直すことが必要だと思う」
(編集委員 吉川和輝)
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