「運命」に是も非もない? 史記にみる自由のすすめ
司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん
「采薇」(書・吉岡和夫)
中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「トップは功労者を忘れがち 史記に学ぶ論功行賞の現実」)
人は「自由」を願います。私の過去も自由を求めての旅でした。ほんとうの自由とは何でしょうか? それは放縦の意ではなく、信念に基づいてものが言えることではないでしょうか。そして自分の自由を主張する以上、他人の自由も認めなければなりません。今回はそんな自由を行使した人物が登場する「伯夷(はくい)列伝」にふれます。全70巻ある「列伝」の第1巻です。
孤竹(こちく)という小国の君主の子に伯夷と叔斉(しゅくせい)という兄弟がありました。父は弟の叔斉に後を継がせたいと考えていましたが、父の死に際して叔斉は位に就こうとせず、伯夷に譲ろうとします。しかし伯夷は固辞して国を出てしまい、叔斉もまた国を去りました。
2人は老人を大事にすると評判の西伯昌(せいはくしょう)が治める周に行こうとします。ところが到着前に西伯昌は亡くなり、その子の武王が、暴虐非道だった殷(いん)の紂(ちゅう)王を討つべく出陣したところに出くわします。2人は武王の馬を引き留めて諫(いさ)めました。
父死して葬らず、ここに干戈(かんか)に及ぶ、孝と謂(い)ふべけんや。臣を以て君を弑(しい)す、仁と謂ふべけんや。
父君が亡くなって葬儀も済んでいないのに戦いに出るのは孝ではありません。殷の臣下にありながら主君を殺すのは仁とは言えません――。武王の従者が2人を殺そうとした時、武王の軍師、太公望(たいこうぼう)が「これ義人なり」(この者たちの言うことも正しい)と間に入り、兄弟は解放されました。
2人は老人を大事にすると評判の西伯昌(せいはくしょう)が治める周に行こうとします。ところが到着前に西伯昌は亡くなり、その子の武王が、暴虐非道だった殷(いん)の紂(ちゅう)王を討つべく出陣したところに出くわします。2人は武王の馬を引き留めて諫(いさ)めました。
イラスト・青柳ちか
父君が亡くなって葬儀も済んでいないのに戦いに出るのは孝ではありません。殷の臣下にありながら主君を殺すのは仁とは言えません――。武王の従者が2人を殺そうとした時、武王の軍師、太公望(たいこうぼう)が「これ義人なり」(この者たちの言うことも正しい)と間に入り、兄弟は解放されました。
太公望は信念に基づいた諌言(かんげん)を認め、のちの孔子も2人をたたえています。伯夷・叔斉のおよそ900年後に生きた司馬遷も、自由を発揮して武王を諌めた2人に大いに共鳴したと思われます。司馬遷も漢の武帝にその信念とするところを述べ、宮刑を受けていました。
ちょっと余談になりますが、皇帝に厳しく意見した司馬遷は、さらに2千年後の現代になっても許されていないようなのです。