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「至聖」(書・吉岡和夫)

「至聖」(書・吉岡和夫)

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「流れ治めた仕事師 史記にみるサラリーマン社長の条件」

2020年は司馬遷が史記で「至聖(最高の聖人)」と評した人物、孔子(紀元前551年ごろ~同479年)のことから書き始めようと思います。孔子と弟子の言行録である「論語」は今、ブームのようですが、その原型のようなものは、すでに司馬遷の時代にもあり、史記にも多くが引用されています。

司馬遷は孔子を特別扱いしています。史記は王朝・名家・個人の歴史を「本紀(ほんぎ)」「世家(せいか)」「列伝」に分類していますが、孔子については「孔子世家」と、彼の弟子たちを紹介する「仲尼弟子(ちゅうじていし)列伝」の2巻を用意して詳しく論じています。仲尼とは孔子の字(あざな)、つまり呼び名です。

孔子が生きたのは、戦国時代につながっていく春秋時代の終わりごろです。周王朝が形式的に続く乱世でした。低い身分の生まれながら、学問を修め、実務にも通じていた孔子は、周のはじまりの再現を夢みました。なぜでしょうか。史記は次のような話を紹介しています。

 孔子の時代は周の王室が力を失うとともに文化も衰え、礼儀作法が軽視されるようになっていました。そのため孔子は夏(か)、殷(いん)、周の3つの王朝にわたって文献を順序ただしく整理し、それぞれの特徴をつかみます。そして「周は二代に監(かんが)みる。郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾(われ)は周に従はん」と述べました。周は先立つ2つの王朝の長所と短所を学び、取捨選択したからこそ、香り高く生き生きとした文化を生んだ。だから私は周の道を行こう、という意味です。弱体化する前の周には、過去の王朝を否定することなく、継承すべきものは継承する姿勢がありました。
イラスト・青柳ちか

イラスト・青柳ちか

 しかし現実世界では孔子の理想は高すぎたのかもしれません。賢君に仕えて文化を盛んにし、世の乱れをただしたいという孔子の夢は、見果てぬまま終わりました。孔子が自らの運命を達観したかのように弟子に語った次の言葉が、私はたまらなく好きです。
  (もち)ひられず。故に芸あり。
 役職を得られなかったがゆえに、芸が身についたよ――。芸とは六芸(りくげい)と呼ばれ、通常は礼(礼儀作法)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(書道)・数(算術)を指します。もし一芸を生かして有名になるなら「御か、射か。私なら御だな」と語ったユーモアのある名文句も残っています。いずれの言葉も論語に残されているので、司馬遷があえて引用し、強調したかったものと思われます。

孔子は諸国を巡って世直しのチャンスをつかんだり、つかもうとしたりするたびに、すでに出世を果たしているその国の宰相ら実力者に邪魔されます。既得権益のある者にとっては、その土台を突き崩そうとするような孔子は危険人物だったのでしょう。

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