イルカが言葉を覚えた! 音・モノ・文字の関連を理解
東海大学 海洋学部 村山司(4)
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イルカと言語の研究を進める村山さんにとって、欠かすことの出来ない相棒は、鴨川シーワールドのシロイルカ、ナックだ。
シロイルカは、ベルーガとも呼ばれる。北極海や、ベーリング海やオホーツク海の北側など、北極圏の非常に寒い海に適応し、暮らしている。体長は、オスは5メートル以上、メスも4メートルに達する巨体で、体重もオスは1トンを超えることがある。名前の通り体色は白。おでこが出っ張っているのは、音波を収束させるレンズのように働く脂肪組織、メロンが内側にあるからだ。よく見ていると、このおでこはぷるんぷるんと震える。長いクチバシを持たず口元がいつも笑っているように見えることや、ほかのイルカとは違い首を動かせることもあって、表情や動作にどことなく人間ぽさを感じられる。
海のカナリア、Sea Canaryと呼ばれることもある。水中でピーピーとやかましいくらいよく鳴くからだ。ぼくは、シロイルカの繁殖水域のひとつであるカナダのセントローレンス湾の自然史博物館で、水中に設置したマイクの音をリアルタイムで聞かせてもらったことがある。船が行き来するエンジン音の合間に、ピーッピーッという笛のような音が聞こえてきた。何キロも先にいるシロイルカの鳴き声だと説明を受け、非常に感銘したのを覚えている。
さて、ナックは、1988年、カナダから日本にやってきた。その後、カナダはシロイルカの輸出を禁止したので、ナックは現時点で日本唯一のカナダ出身シロイルカである。日本の水族館にいるほかのシロイルカはロシア出身だ。
村山さんとナックの出会いは90年代。最初は「言葉」の研究とは関係のない領域だった。
「1991年に水産庁からの依頼で実験をやったことがありました。流し網漁で使われる網に、いろいろな魚や海獣、海鳥が混獲されてしまうので、防止策を考えてくれっていうことで。じゃあ、イルカの視覚で流し網がどのくらい見えるのかという実験をするときに、初めて鴨川シーワールドでナックと一緒にやったんです。その頃は全然、ナックに言葉を教えるなんていうのは考えてなかったんです」
では、イルカと話すための本格的な研究に入りたいと思った時、なぜナックに白羽の矢が立ったのか。
「これは、場所の要因が大きかったですね。鴨川シーワールドのマリンシアターという大水槽にいるんですが、広くて、ガラス張りで、死角がない。動物からもこっちからも全部見えるから、この水槽で実験したいと思いました。その時たまたま、そこにいたのがナックだったというわけです」
結果的には、この決断は運命的でもあった。ナックは、非常に好奇心旺盛で、集中力があり、村山さんの実験に協力的だった。
村山さんがナックと一緒にまず行った研究は、「人工言語による名詞の命名」だ。
「まず、ナック語で物の名前を呼ばせると。人の言葉どおり言えればいいんですけど、声帯がない動物なので、それは無理だろうなと思ったもんですから、普段使ってるピーとかキューとかいう鳴き声で、それと物の名前を結びつけると。フィン、足ひれを見せたらピーって鳴いたら、エサをあげる。それからマスク、水中めがねを見せたら長い音でピィーーーって鳴いたら、エサをあげるってやって、それをだんだん繰り返して、これはピーって鳴いて、これはピィーーーって呼ぶんだよっていうのを教えていくというところをやって、それはだいたい成功したんですね」
ナック語というのは、ナックにとって自然な鳴音から特徴的なものをピックアップして、物と対応づけたものだ。ナックの声と物とが結びつくことによって、初歩的な人工言語を作ったことになる。村山さんも「もしかしたら、ナックとしては全然別の意味で鳴いてる音を、こっちで無理やり、これはフィンで、これはマスクでって決めつけちゃってるかもしれないです」と言っていたけれど、ナックはこの段階を難なくクリアした。
「最初は、モノを見せて、ナック語で言ってもらったわけですが、逆もできます。スピーカーからピーとか、ビューとか音出して、フィンとかマスクとかを選ばせるってことです。ここでしっかり音と物の名前が結びついてるということだと思うんですね」
この人工言語に導入されて、ナック語で名付けられたのは、フィンと、マスク、バケツ、長靴の4つ。たった4つかと思われるかもしれないが、最初はこういうものだ。人間の赤ちゃんだって、まず「ママ」だとか「マンマ」だとか、なにかの名を呼び始める。
「じゃあ、次はなにかというと、文字だろうと。実は今から思うと、『三段論法』の実験をやるときに、フィンを見せたらアルファベットの⊥だとか、マスクを見せたらRだっていうのを最初教えました。あれが既に記号と物との名前を結びつけるということの始まりだったんですね。それを、もう1回やってみたんですね。それでもできて、フィンはこの文字、マスクはこの文字、というのもちゃんとできました。これで物の名前と、音で物を呼ぶことと、記号で物を表せたということで、今そこまでいったということになりますね」
ナックは、声と文字をフィンやマスクなどのモノと対応させることに成功した。音とモノ、文字とモノ、音と文字、すべての組み合わせで、関連を理解している。
では、次は?
「動詞ですね。この1、2年、動詞を教えようとしています。ですので、今の私の研究を言うと、『イルカの人工言語による名詞と動詞の命名』ということになるんです。今はとりあえず、『持ってこい』と動詞を教えようと思っています。これ、行動としては普段パフォーマンスの中でもやっていることですし」
ナックがモノの名前を言えるようになり、また、動きを表現することができるようになったら、つまり、「フィンを持って来て」と言葉で頼めるようになるし、逆にナックからこちらに対して「フィンを持って来て」と言えるようになるかもしれない。
ふと思うのだが、ナックに対して「フィンを持って来て」と人工言語で伝えるのは、今、トレーナーがパフォーマンスの中で出しているハンドサインの指示とどう違うのだろう。
インタビューに途中から同席してくれた鴨川シーワールドの勝俣浩副館長によると、トレーナーがイルカに出すサインは、もっと単純だそうだ。例えば「プールに浮かんでいるビーチボールを持って来て」という指示は、ただ単に「取ってきて」くらい。ビーチボールがあればそれを持ってくるし、ビート板が浮かんでいればビート板を持ってくる、というふうに、周囲の状況を考え合わせて解釈される。一方で、村山さんの人工言語では、そのあたりの区別が言語の上で出来るようになる。
一方で、ナックから人に「フィンを持って来て」と言う状況は、根本的に違う。
話をする、会話をする、というのは、一方通行ではなくて、双方向で意思を伝えられることだろう。村山さんの人工言語をマスターすれば、ナックは声を使って、あるいは文字を使って(呈示装置にタッチするとかして)、自分から人に働きかけることができるようになる。とても限定的な語彙の人工言語でも、村山さんの「イルカと話す」夢は、イルカ側からの自発的な発話があった時点で、一応の完成をみる。
「犬の言葉がわかる、猫の言葉がわかる、ペットの気持ちがわかるっていう人はよくいます。でも、それはその人だけの感覚で、本当にそうなのって言われたときに、何も反論できないですよね。それを私は、ナックが自発的な意志を持って呼びかけてくるところまで持っていきたいなと。なので、石橋を叩いても渡らないぐらいの慎重さでやってるんです。この時点で、ナックが言葉を覚えたって思ってしまえば、もう簡単で楽しいわけなんですけど、でも第三者が見てもそう見えるようにするというのが研究かなと思うんですよね」
村山さんの研究の行方はいかに。動詞をおぼえ、基本的な構文を身につけたナックが、「話しかけてくるイルカ」として知られる日はいつになるだろうか……。
と、きれいにまとまった感があるが、ここに1点の別の要素がさらに加わる。
それが、昨年以降の一大テーマ、ナックが人の声を模倣できるという発見である。
「イルカの人工言語」「人の言葉の模倣」、2つの研究を隣に並べてみた時、じゃあ、ナックが人工言語ではなく日本語を、模倣ではなく意思疎通の手段として、話す未来はあるのだろうかと連想してしまう。
「もちろん、そこまで行ければ、と思っています」と村山さんは、にこりと笑うのだった。
(2015年5月 ナショナル ジオグラフィック日本版サイトから転載)
1960年、山形県生まれ。東海大学海洋学部教授。博士(農学)。1984年、東北大学を卒業後、1991年、東京大学大学院農学系研究科博士課程修了。水産庁水産工学研究所(現・水産総合研究センター)、東京大学を経て、現職。主に飼育下のイルカを対象に、認知機能やコミュニケーション能力を研究している。『イルカの認知科学――異種間コミュニケーションへの挑戦』(東京大学出版会)、『ナックの声が聞きたくて! "スーパー・ベルーガ"にことばを教えるイルカ博士』『海に還った哺乳類 イルカのふしぎ』(講談社)『続イルカ・クジラ学』(共著、東海大学出版会)など、著書多数。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『天空の約束』(集英社文庫)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその"サイドB"としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、世界の動物園のお手本と評されるニューヨーク、ブロンクス動物園の展示部門をけん引する日本人デザイナー、本田公夫との共著『動物園から未来を変える』(亜紀書房)。
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