マーロン・ブランドに口説かれた 八千草薫さんの秘話
編集委員 小林明
宝塚歌劇、映画、テレビドラマなど人気女優として最前線を駆け抜けた八千草薫さんが10月24日に88歳で永眠した。死因は膵臓(すいぞう)がん。昨年、膵臓がんの手術を受けたが、今年に入って肝臓にもがんが見つかったため、出演予定だった連続ドラマ「やすらぎの刻~道」を降板。治療に専念していた。過去に何度か行ったインタビュー取材で回想してくれた貴重な証言やとっておきの秘話を抜粋して紹介する。
八千草さんの自宅は東京・世田谷の高台にあった。2007年に夫だった19歳上の映画監督、谷口千吉さんと死別してからもブータンを旅するなど山に親しみ、晩年はケヤキの木が茂る庭先でビオトープ造りにいそしんでいた。取材場所は太陽の光があふれる山小屋風のリビングルーム。話はしばしば脱線し、ユーモアたっぷりに冗談を交えながら、八千草さんは自らの足跡や出会った映画人との交流などについてゆっくり振り返ってくれた。
憧れのヴィヴィアン・リー、「手だけは似ている」と面会で感激
――幼少時代で印象的な思い出は何ですか。
「物心つく前に父を亡くしたので母と私の母子家庭です。生まれは大阪で、海と山に囲まれた六甲で育ちました。引っ込み思案で恥ずかしがり屋。近所に英語の通訳をしている独身のモダンな女性がいてよく遊びに行きました。『フランス女優のダニエル・ダリューに似てるわね』なんておだてられ、映画『うたかたの恋』を見た記憶があります。映画館には祖父にもよく連れられて時代劇映画も見ました。長谷川一夫さんを見て『なんてきれいな男性なの』と思ったのを覚えています」
――好きな女優は誰ですか。
「昔からヴィヴィアン・リーが大好きでしたね。『風と共に去りぬ』はあまり好きではなかったけど、『哀愁』にはとても感激しました。宝塚歌劇団にいた頃に東京公演で上京し、映画館で初めて見たんです。以来、ずっと憧れの人。後に映画製作者の川喜多長政さんの夫人、かしこさんに『ヴィヴィアンに会わせてあげるわ』と言われ、わざわざ英国まで会いに行ったことがあります。話した内容はすっかり忘れてしまいましたが、握手したら手がしっかりしていたので『手だけでも私に似てるんだ』と喜んでいました」
イタリア行きを決めた運命の快晴、ヘプバーンと入れ替わり
――出演した映画で印象深い作品はなんでしょう。
「たくさんあるのでとても一つには絞り切れませんが、1954年にともに公開した稲垣浩監督の『宮本武蔵』と日伊合作オペラ映画『蝶々夫人』はやはり忘れられませんね。実はイタリアに面接に来てと言われた時、まだ『宮本武蔵』の撮影が残っていたんです。オープンセットでの撮影がその日にうまく終われば出発できるけど、もし雨が降ったりして撮影が1日でも延びたら、イタリア行きは諦めることになっていた。ところが幸運にもその日は快晴。まさに運命ですね。私は必死の思いで初のアフレコを夜通しで終え、翌朝には出発。南回りのプロペラ機で渡欧します。もう疲れ果てて機内ではずっと眠っていました」
――スタジオはローマ郊外のチネチッタ撮影所ですね。
「チネチッタでは前年に『ローマの休日』を撮影していて、私、オードリー・ヘプバーンが滞在していたレジデンスにちょうど入れ替わりで入ったんですよ。『蝶々夫人』のスズキ役の田中路子さんが欧州生活に慣れているので、色々と面倒を見ていただきました。ローマ市内をよく一緒に散歩したんですが、スペイン階段に行った時、『あ、ここでオードリーがジェラートを食べたんだ』とうれしくなり、同じようにまねをしてジェラートを食べました。イタリアはとにかく食事がおいしくて、毎日トマトソースのパスタばかり食べていました」
下町で出会ったマーロン・ブランド、視線の魔法にドキドキ
「そんな時、下町のトラットリアで偶然マーロン・ブランドを見かけたんです。アカデミー賞主演男優賞に輝いた『波止場』を見たばかりだったので、ずうずうしくサインをおねだりしたら、『なぜローマにいるの』と聞かれたので『撮影でチネチッタに来ている』と答えた。すると『時間があいたらスタジオに顔を出すよ』と言ってくれた。でもまさか本当に再会できるとは思ってもいませんでした」
――スタジオに実際に会いに来たんですか。
「いえいえ、ある貴族の邸宅のパーティーで再会したんです。私は和服を着て、部屋の一番奥の暖炉のそばに座っていました。するとさっそうとしたスーツ姿のマーロン・ブランドが後から遅れて現れて、私の姿を見つけると、すぐに向かいのイスに腰掛け、瞳をじっと見つめてきたんです。あまりの視線の迫力に、私はまるで魔法をかけられたかのように動けなくなってしまいました。あんなにドキドキした経験は、後にも先にもありません」
――目で口説かれたわけですね。
「ええ、まあ、そのあたりはよく分かりませんけど……。でも『私もあまりにミーハーだったな』なんて後から反省しました。ところがその数年後、マーロン・ブランドが来日する機会があり、『もし時間があれば会いたい』という私宛てのメッセージが届いたんです。どうすべきか迷いましたが、仕事の都合もあったし、過去の淡い思い出はそのまま胸にしまっておいた方がよいだろうと思い、結局、お目にかかるのはやめておきました」
ソフィア・ローレンとは新人同士、三船敏郎にお守りの贈り物
――チネチッタにはいろんな映画人がいたんでしょうね。
「隣のスタジオではソフィア・ローレンが撮影していました。私と同じまだ駆け出し女優で、日本とイタリアの新人同士ということで一緒に記念撮影したのを覚えています。とても大きな人で、隣に並ぶとちょうど私の目の前に立派なバストが見えた。『日本人女性は小さいわね』なんて思われたかもしれません。チネチッタには後に大映の監督になる増村保造さんも留学しておられて、『蝶々夫人』の撮影を熱心に手伝っていました」
――お通役で出演した『宮本武蔵』はアカデミー賞名誉賞を獲得しました。
「『宮本武蔵』は3部作まであり、主役の三船敏郎さんには大変にお世話になりました。実はチネチッタの売店で買った魔法使いの人形を三船さんにプレゼントしたことがあります。子どもっぽくて恥ずかしいんですが、ほうきを持ったフェルト製の赤い人形で、お守り代わりに持っていた私にとっては大切なものでした。三船さんがとてもすてきな人だったので……。でも私に魔法使いの人形なんかもらって、さぞかしお困りになったろうと思います」
服をほめてくれた谷口千吉監督、猛反対押し切り結婚へ
――『蝶々夫人』と『宮本武蔵』を公開した後、『乱菊物語』でメガホンを取った谷口千吉監督と出会い、57年に電撃結婚します。
「私が監督の作品を最初にみたのは『ジャコ万と鉄』。名字と名前が左右対称のシンプルな字面できれいだなと感じました。その後、東宝の撮影所の喫茶店で休憩していた私を見つけて『この間の雑誌インタビューの写真で着ていた服装、なかなか良かったよ』なんて声をかけてくれた。緑とえんじと茶が混じったような、紅葉しかけた山のような色合いが好きだったみたいです」
「そのうちに東宝の企画で『乱菊物語』を撮影することになります。当初は『宝塚から借りてきた女優は面倒だな』と思われていたみたいです。私は宝塚にも籍があったから、東京と関西を夜行列車で頻繁に往復する生活。仕事で忙しすぎるのはあまりよくないとは思っていました。最初から結婚しないということでお付き合いしていましたが、急きょ、結婚する展開になります。とはいえ相手は19歳上で結婚3度目。周囲から猛反対されますが、どうせ女優は辞めようと思っていたので結婚を決めました」
登山は共通の趣味、心の癒やし・未知への冒険……
――登山を始めたのは、山好きで知られる谷口監督の影響が大きいようですね。
「山に近い六甲で育ちましたから、私自身も自然が大好きだし、監督から登山の話を聞いたり、写真を見たりしているうちに、一緒に登りたくなったんです。結婚した1957年の暮れ。新婚旅行代わりに上高地を登りたいとせがみ、新雪に覆われた冬山に1週間ほどこもりました。以来、夫婦一緒に国内はもちろん欧米やアジアの山にも登りました。むやみに高い山を目指すつもりはなかったけれど、自然の中にいると心が癒やされるし、やはり気持ちがいい。どうしても未知の世界に行ってみたいと思ってしまう」
――ご自宅も坂道が多い高台にあります。
「この家は(東宝の前身、PCLで谷口監督と同僚だった)本多猪四郎監督の奥さんが見つけてくれたんです。当時、周りはほとんど畑で『世田谷のチベット』なんて呼ばれていたんですよ。『大きな木を1本だけほしい』と監督にせがんで庭にケヤキの木を植えました。ケヤキは成長がとても速いし、落ち葉の掃除など世話がかなり大変だった。でも、いつもふうふう言いながら監督と一緒になって片付けていたのは懐かしい思い出です」
(聞き手は編集委員 小林明)
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