無名の男が権力を握ったら 史記が教える出世後の態度司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん

「百里奚」(書・吉岡和夫)
「百里奚」(書・吉岡和夫)
中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「すごい男の『日暮れて道遠し』 史記が描く充実の生涯」

いまの世界は少数の権力者によって振り回されているようにみえます。国益を主張し、ときに核をちらつかせながら権力を行使する姿は、本来は小さく弱い人間が巨大な怪物になったかのような錯覚さえもたらします。いったん権力の座についた人は自らを万能であるかのように感じてしまうのでしょうか。長くその地位を保ちたいと願うあまり引き際を誤り、悲惨な結末によって晩節を汚すことを忘れてしまうようです。今回は無名だった人物が権力を握った後のことを考えてみたいと思います。

■他者を縛りつけるための法が…
紀元前361年、中国・戦国時代の秦(しん)の国で、21歳の孝公が即位しました。若き君主は富国強兵の野望に燃えていました。そこへ、衛の国から公孫鞅(こうそんおう)という男がやってきました。鞅は無名ではありましたが、若いころから刑名の学、今で言えば法律学を学んできた有能な人材です。
鞅は孝公に近づき、その心をつかみました。そして、厳しい法をつくり、それによる支配を徹底していきました。例えば、隣人同士で監視し、罪を密告し合い、連帯責任を負わせる大変厳しいものもありました。密告すると恩賞が与えられ、密告を怠れば極刑を受けます。密告された者は釈明の余地も与えられず罰せられました。2人以上の男子がいて分家しない場合は2倍の人頭税を納めさせ、穀物や織物を多く上納する者の労役は免除し、貧しい者は奴隷にしました。王族であっても功績がなければ地位をはく奪し、法を犯せば罰しました。
鞅は軍功もあって多くの領地を与えられました。そして領地の名にちなんで「商君」と呼ばれるようになります。
その商君の人生も、後ろ盾の孝公が亡くなると暗転します。商君によって刑罰を受けた王族らが立ち上がり、身の危険を感じた商君は逃げようとしますが、関所まで来て宿に泊まろうとすると主人に断られます。客が商君であることを知らない主人は「商君の法では、旅券を持たない人を泊めると罰せられるのです」と口にします。商君はため息をついて言いました。
 ああ、法を為(つく)るの弊、一(いつ)に此(こ)れに至るか。
自分がつくった法の弊害は、まったくこんなところにまで及んでいるのか――。商君は初めて自分がやり過ぎたことに気づいたのでしょう。末路は悲惨でした。一度は逃げのび、再び秦に入って破れかぶれの反乱を企てますが、誰の味方も得られず捕らわれます。そして「車裂き」の刑に遭い、一族は滅ぼされました。車裂きとは牛や馬が引く2台の車で身体を裂く、見せしめを兼ねた極刑です。

商君が法を厳格にしたことは間違いだったのでしょうか。商君によって秦が国力を増したことは否定できません。私が問題だと思うのは、国を強くするために人々の幸せを奪ってしまったこと、そして何より、それが孝公のご機嫌をとり、権力を握るための「手段」だったことです。富国強兵を急ぐ孝公のもとで出世し実権を握ろうと、即効性のある最短距離の道を進みました。それが「帝道」「王道」という優れた為政者のあり方とは違う「覇道」であることを自覚していながら、商君は突き進みました。

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