サッカー選手・佐藤寿人さん やりきったか、父の問い
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はプロサッカー選手の佐藤寿人さんだ。
――サッカーを始めたきっかけは。
「3歳の時に父がボールを買ってくれて、双子の兄と蹴って遊んだことです。ときどき父も加わりました。まだJリーグも始まっていなくて、スポーツといえば野球という時代でしたが、我が家のお正月の恒例行事は、国立競技場でサッカー天皇杯の決勝を見ることでした。自然とサッカーをプレーしたいと思うようになりました」
――普段はどんなお父さんでしたか。
「母と一緒に、埼玉県春日部市でラーメン店を営んでいました。朝は仕込み、夜は後片付けで忙しく、いつ休んでいるか分からなかったです。そんななかでも、いつも子ども中心に考えていました。私が小学校の時には、サッカーの審判の資格を取って支えてくれました」
「私は中学進学と同時に、サッカーのよりよい指導を受けるため、ジェフユナイテッド市原(現在のジェフユナイテッド市原・千葉)の育成チームに加入しました。すると父はお店をたたんで、チームから近い千葉県に転居しました。私には今3人の息子がいますが、父のようにはとてもできないと思います」
――ご両親の期待は大きかったんですね。
「その分、覚悟が決まりました。中途半端な気持ちではできない。やるしかないな、と。それでも順風満帆とはいかず、ジェフの育成チームではサッカーをやめたいと思うまで悩んだことがあります。身長が低く、試合の出場機会もありませんでした」
――現在も身長は170センチとプロサッカー選手として高くはありませんが、スピードやテクニックで活躍されているので驚きです。当時、ご両親には相談したのですか。
「父からは『おまえはやりきったのか』とだけ聞かれました。すべてやったうえでの決断なら仕方がないという、諭すような口ぶりでした。そこで、自分は全力でなかったことに気づいたのです。身長の低さを逃げ道にして、まだほかにできることがあるのではないか。できることをやりきらなければ悔いが残ると思い、練習や試合に臨むようになりました」
「もし、あの時父から頭ごなしに怒鳴りつけられていたら、反発してサッカーをやめていたかもしれません。勝ち負けがすべてのプロになった今も、やりきることは自分の軸の一つです」
――双子のお兄さんもプロサッカー選手として活躍されていますね。
「今は同じチームでプレーしていますが、別のチームに所属していたこともあります。2003年、私のチームがJ1残留の瀬戸際にあった時は、兄に2点のゴールを決められて負けました。両親は兄の活躍を素直に喜べず、複雑な気持ちだったようです」
[日本経済新聞夕刊2019年10月8日付]
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