有森裕子 偏見・格差と闘う女性アスリートたち

日経Gooday

2019年7月、ワールドカップで優勝した米女子サッカーチーム。中央はキャプテンのミーガン・ラピノー選手(写真=ロイター)
2019年7月、ワールドカップで優勝した米女子サッカーチーム。中央はキャプテンのミーガン・ラピノー選手(写真=ロイター)
日経Gooday(グッデイ)

開催まで1年を切った東京オリンピックに向けて、さまざまな記念イベントが開催されています。9月15日にはマラソン日本代表の座をかけたマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)も開催されました。

偏見と闘い、日本女子初の五輪メダリストになった人見絹枝さん

そんな五輪ブームを盛り立てる1つ、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』で、少し前に(7月7日放送回)、ダンサーの菅原小春さん演じる人見絹枝さんが登場しました。

人見絹枝さんは、1928年のアムステルダム五輪に日本人女子選手として初めて出場し、800mで日本女子初のメダリスト(銀メダル)になった陸上選手です。1928年といえば、今から約90年前。遠い昔の出来事のように思われるかもしれませんが、実はこの方、私と不思議なご縁のある方であり、日本の女性アスリート活躍の礎を築いた人でもあるのです。

彼女は1907年(明治40年)に私と同じ岡山県で生まれました。16歳の時に陸上競技を始め、走り幅跳びの日本最高記録を出して、17歳の時に二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)に入学。三段跳びややり投げ、50m走などさまざまな種目で記録を打ち立てていきます。

19歳で大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社大阪本社)に入社し、運動課で記者をしながら、100mや砲丸投げなどにも活躍の場を広げ、続々と日本記録や世界記録を樹立。ついに21歳でアムステルダム五輪に出場し、日本女子初の五輪メダリストとなりました。

しかし、練習と試合、仕事と、身を削るような生活がたたったのか、若くして病に倒れ、残念ながら24歳という若さで亡くなってしまいます。

同郷、同じ日にメダル獲得という不思議なご縁

人見さんは特に岡山では有名な方ですが、私が彼女をより意識するようになったのは、1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得してからです。私のメダル獲得は、日本人女子の陸上選手としては64年ぶり、人見さんに次ぐ史上2番目だとして注目されました。さらに、バルセロナ五輪でメダルを取った日は、奇しくも人見さんがアムステルダムで銀メダルを獲得した日と同じ8月2日。そして、彼女が亡くなったのも8月2日だったのです。メダリストとしての不思議なご縁を感じた私は、帰国後、故郷・岡山にある人見絹枝さんの墓前で銀メダル獲得の報告をさせていただきました。

こうしたご縁だけではなく、私は人見さんの生き方にも、同じ女性アスリートとして大いに共感を覚えています。

彼女のすごいところは、女性が人前で太ももを出して走ることへの批判や偏見が強かった昭和初期の時代に、大変な苦労をしながら女性アスリートとして道なき道を切り開き、輝かしい結果を残したことです。

そんな彼女の生き方に、私自身、プロ化を求めて奮闘した日々(詳しくはこちら:「幸せにならなきゃ」プロ目指し走り続けた)を重ね合わせ、共感する部分が多くありました。人見さんが大変な壁を乗り越えてくださったからこそ、時代を超えてさらに進化した壁が私の前に現れ、乗り越えることができたのだと思うのです。

人見さんは、後輩たちが当たり前のようにスポーツができる環境を作るために、世の中の偏見やそれまでの常識と闘いました。彼女のような偉大な先駆者がいたからこそ、日本の女性アスリートが世界で戦える道が開けたと言っても過言ではありません。だからこそ、彼女に続く五輪メダリストになった私も、人見さんの思いを後進に伝え、つなげていきたいと(勝手に)思っています。

男女平等賃金を訴えた米国女子サッカーチーム

今でこそ女性がスポーツの世界で活躍することは当たり前になったものの、世界を見渡すと、まだ男女間の格差を感じるような場面に出合います。

例えば、7月にフランスで開催された女子サッカーワールドカップ。この大会では米国チームが4度目の優勝を飾りましたが、帰国後、ニューヨーク市庁舎前で行われた表彰セレモニーで、チームのキャプテンであり同性愛者のミーガン・ラピノー選手は、こんなスピーチをしています。

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