ジャストシステム社長時代の和宣氏

1980年代に入り、ワープロの普及が始まると、「四国の徳島にすごいソフト会社が現れた」といううわさが立った。浮川夫婦はわずか数人の仲間と不眠不休で日本語入力システム「ATOK」を開発、85年には一太郎を発売した。90年代の一大パソコンブームで会社は急成長し、97年には株式を店頭公開した。

徳島市内に巨大本社ビルを建設し、社員数は1000人を超えた。日の丸ソフトの代表格ともてはやされた。しかし、和宣氏は「あんまり面白くなかった。組織が大きくなり、上場すると経営者は現場から離れる。株主など多くの関係者と対峙しなくてはいけない。製品やサービスのアイデアを考えたり、企画したりする時間が削られていった。これじゃ『大型雑用係』だと思うようになった」という。

「研究者の受け皿を」、ipadに日本語入力

ジャストシステム専務時代の初子氏

巨人マイクロソフトを向こうに回し、ワープロソフト市場で激しいシェア競争を演じた。06年から4期連続で最終赤字を計上し、キーエンスから約44%の出資を受け入れた。和宣氏と初子氏の肩書はそれぞれ社長、専務から会長、副会長なった。浮川夫妻は資産を築き、60歳の節目の年を迎えていたが、引退の二文字は全くちらつかなかった。

キーエンスの資本参加からわずか半年で、メタモジを起業した。「第二の創業とか、そんなカッコいいものではなく、研究者たちの受け皿会社を作ってあげないといけないと考えたからだ」という。和宣氏は次世代の先端技術開発につながる20人あまりの研究者を集めていたが、外部から来た経営陣は既存事業にしか関心を示さなかった。有能な研究者は行き場を失いかねない。

「起業したときはインターネット関連事業でもやろうかなと思っていた」というが、それからわずか1ヵ月後に方針転換に迫られた。10年の年明け、和宣氏にとって米国から衝撃のニュースが飛び込んできた。

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