発見まで1000年 丸ごと砂に埋もれた古代ローマ都市
都市全体が消えることなど滅多にない。だが、北アフリカのヌミディア地方に丸ごと姿を消した都市があった。西暦100年頃、古代ローマ皇帝トラヤヌス帝によって建設されたティムガッドだ。
ティムガッドは当初、ローマ帝国の第3軍団アウグスタの駐屯地として建設され、のちに退役軍人の植民都市として繁栄し、数百年にわたり栄華を極めた。おかげで、侵略者にとっては魅力的な標的だった。430年のバンダル人による侵攻の後、何度も攻撃が繰り返されて弱体化し、完全な復興を果たせないまま、700年代に打ち捨てられてしまう。
砂漠が街をのみ込み、やがてすっかり砂に埋もれた。その後、ティムガッドが再び見出されたのは、砂漠の下に消えてから1000年が経過した1700年代のこと。発見者は、異端の英国人探検家だった。
英国貴族の学者ジェームズ・ブルース
1763年、英国スコットランドの貴族ジェームズ・ブルースは、沿岸都市アルジェ(現在はアルジェリアの首都)の英国領事に着任した。エチオピアにある青ナイルの水源を発見したことで知られる人物だ。
ブルースは、背が高く堂々としており、好奇心旺盛で貪欲な学者だった。アルジェに渡る前、イタリアで数カ月を費やして、アフリカ地域の歴史と古代における役割を詳しく調べていた。だが短気で頑固なブルースは、着任してすぐにロンドンにいた上司と衝突し、1765年に職を失ってしまう。それでも彼は英国に帰らず、フィレンツェの画家ルイージ・バルガーニとともにアフリカ各地へ冒険の旅に出た。その旅で、ブルースは珍しい人々や訪れた場所を記録し、バルガーニは絵を描き残した。
懐疑と不信の眼差し
この旅の初めの頃に、ブルースとバルガーニは古代文明の痕跡を探そうと、アルジェリアの砂漠まで南下した。2人はそれまでに人里離れた場所でローマ時代の遺跡を数カ所すでに発見していた。
そして1765年12月12日、ティムガッドとおぼしき場所にたどり着く。ブルースとバルガーニは、オーレス山地の北斜面の近くにあるその地を数百年ぶりに訪れたヨーロッパ人だと考えられている。「小さな街だが、優美な建物が立ち並ぶ」とブルースは日記に書いた。彼はこのとき、廃墟の群れがトラヤヌス帝によって1000年以上前に作られた都市の遺跡だと確信していた。
街を発見したその日、ブルースは「トラヤヌス帝の凱旋門」について書き記し、バルガーニは絵を残した。翌日、2人が再び訪れて調べてみると、円形劇場を発見した。ブルースは、西暦138年にハドリアヌス帝の後を継いだローマ皇帝アントニヌス・ピウスとその皇妃である大ファウスティナの彫像を砂の中から発掘し、「えもいわれぬ美しさ」があると評している。
ブルースは彫像を砂に埋め戻し、さらに旅を続けた。彼は北アフリカとエチオピアの各地でさらに多くの遺跡を見つけて書き残し、青ナイルの水源も突き止めたと主張した。バルガーニは1770年に亡くなってしまったが、ブルースは1774年にロンドンに戻り、これらの大発見について報告した。ところが、彼に向けられたのは懐疑と不信の眼差しだった。この反応が信じられず、ブルースはスコットランドに隠居する。
それでも彼は、1780年に『ナイル探検』という5巻にも及ぶアフリカ時代の回顧録を書き始めた。1790年に出版にこぎつけ、その4年後に亡くなったが、まだ英国人の多くは彼の業績を認めていなかった。
色褪せない古代ローマ帝国の輝き
ティムガッドはそのまま砂漠の砂に埋もれ、ほぼ忘れられていた。状況が変わったのは、1875年にブルースに敬意を抱いていたアルジェの英国領事ロバート・ランバート・プレイフェアがティムガッドを訪れたことだった。1877年にプレイフェアが出版した本『アルジェリアとチュニスにおけるブルースの足跡をたどる旅(Travels in the Footsteps of Bruce in Algeria and Tunis)』によれば、彼はブルースが記録した遺跡をいくつか訪れてみたのだという。
プレイフェアが残したティムガッドの説明は、ブルースよりも詳しかった。彼の観察によると、ティムガッドはローマの街道が6本も交わる交通の要衝に位置しており、この地域における重要性が示された。また、その建築は近隣の古代ローマの都市でヌビア軍の首都でもあったランバエシスを凌駕していたという。ティムガッドは「商業・農業活動の中心」だった、とプレイフェアは結論付けた。
また、壮大な「トラヤヌス帝の凱旋門」を称えてもいる。凱旋門の高さは6メートル、下の地面には深い轍が刻まれ、ローマ帝国の主要道路を通ってティムガッドに出入りした交通量の多さを物語っていた。
プレイフェアが訪れてから数年後の1881年、今度はフランスがティムガッドを掌握した。フランスの支配は1960年まで続いた。その間、遺跡は系統立てて発掘された。ティムガッドは何世紀もの間、砂の下に埋もれていたおかげで、都市が丸ごと発掘された。このような古代ローマの都市は数えるほどしかない。
穀物生産の中心
プレイフェアとフランスの学者の研究によって、ティムガッドの歴史が明らかになった。ティムガッドの元々の名前はコロニア・マルキアナ・トラヤナ・タムルガ。トラヤヌス帝の姉ウルピア・マルキアナにちなんだ名前だ。市内は碁盤の目に整備されていた。
西暦3世紀半ばには、ティムガッドの人口は1万5000人に達していたという。壮大な図書館や計14カ所もの浴場をはじめ、素晴らしい公共施設がそろっていた。ティムガッドの快適な施設と見事なモザイク画は、ローマ帝国の全盛期に栄えていた豊かな都市ポンペイとよく比較される。
ティムガッドは、ローマ帝国の南の国境を守る要だった。当時、北アフリカは穀物生産の中心であり、古代ローマの第3軍団アウグスタがティムガッドに駐屯し、ローマへの穀物輸送を護衛した。2年ごとに数百人が軍を退役し、恩給の一種としてティムガッドへの定住権が与えられた。彼らの存在もまた、侵略者に対する抑止力になった。
そして何より、ティムガッドは南の国境におけるローマ帝国の力の象徴だった。その住民は多様で、キリスト教徒も古い神々を信仰する人もいた。キリスト教の異端宗派ドナトゥス派の拠点だった時期もある。
時は下り、ローマ帝国の国境全域が危機に陥ると、やがてティムガッドにも通行料が課せられるようになった。先に書いたように、5世紀のバンダル人による略奪の後、ティムガッドは破滅への道をたどり始める。西ローマ帝国が崩壊して以降は、キリスト教の中心地として短期間だけ復興し、539年には市外に砦が建設された。だが、700年代のアラブの侵略に前後してついに放棄された。
その時からティムガッドは徐々に砂漠にのみ込まれ、ジェームズ・ブルースの探検隊が再発見するまで1000年もの間、かの栄華は砂に埋もれていた。
ティムガッドは1982年にユネスコの世界遺産に登録されている。
(文 RUBÉN MONTOYA、訳 牧野建志、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2019年8月15日付]
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