「国歌独唱」は歌い出しの音が一番難しい(井上芳雄)
第48回
井上芳雄です。今月、先月と名誉な出来事が続きました。7月12日には東京ドームでの「マイナビオールスターゲーム2019」第1戦で国歌独唱。6月10日にはオーストリア政府から「オーストリア共和国有功栄誉金章」をいただきました。ウィーンミュージカルの成功で、オーストリアの歴史・文化を広めた功績とのことです。どちらも、歌手として、俳優として誇らしいことで、これを励みに頑張りたいと思っています。
国歌独唱は、2017年に地元・福岡のヤフオクドームでの福岡ソフトバンクホークスのプロ野球開幕戦で歌って以来、2回目です。前回もそうでしたが、緊張しました。歌うのは1分くらいですが、東京ドームだと4万人を超えるお客さまを前にするので、ふだんの舞台とは桁が違います。しかもオールスターゲームの初戦とあって独特の熱気。夢を見ているというか、実感があまりないまま終わってしまったような気もします。
当日は、昼にリハーサルを1回して、次がいきなり18時55分からの本番です。『君が代』はアカペラで歌うので、どの音で歌い出すかが一番難しく、緊張します。何の音から始めてもいいのですが、音程がどんどん高くなるので、高いところから始めるとあとできつくなってしまいます。落ち着いて普通に歌えば難しくないのかもしれませんが、ドームの残響がすごいので、あの場で冷静に歌うのはけっこうハードルが高かったです。
『君が代』は一般的にはドレミのレの音から始まります。なので僕は、グラウンドに入るまでスマホでレの音を聞いて、「き、き、き」と出だしを言いながら、頭の中でずっと音を鳴らしていました。それでもちょっと違う音が出てしまいます。グラウンドに入ると、今度は選手の紹介で大歓声が上がっていて、音をとるのが大変でした。
いざ国歌独唱が始まると、心の中で「この音で大丈夫だ」と自分に言い聞かせて、勇気を出して歌い出しました。始まったら、たっぷりと歌うよう心がけました。歌っていると、自分の足元のスピーカーから出ている音と、球場に回っている残響の両方が聞こえてきます。音が重ならないように、残響が消えてから次のフレーズを歌うようにしたので、たっぷり歌ったと思います。すぐに終わってしまっても味気ないですしね。ただ、『君が代』の歌い方として、それが正解かどうかは分からないですけど。
2回目でも国歌独唱は緊張しますが、歌手として名誉なことで、貴重な経験をさせていただきました。もういつでも歌えるという、自分の中でのちょっとした自信もつきました。
名誉なことがもうひとつ。6月10日にはオーストリア政府から「オーストリア共和国有功栄誉金章」を授与されました。『エリザベート』と『モーツァルト!』が日本で成功を収めたことで、オーストリアの歴史・文化を広めた功績とのことです。
演出家の小池修一郎さん、俳優の山口祐一郎さん、一路真輝さん、花總まりさん、プロダクション・コーディネイターの小熊節子さんと一緒にいただきました。素晴らしい勲章をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。宝塚版、東宝版のそれぞれに深く関わられて、日本の『エリザベート』の歴史を築かれてきた先輩方の中に、一番年下の僕が入るのはおこがましいのですが、これを機にいっそう頑張りたいと思います。
勲章の伝達式と記念レセプションは、東京・麻布にあるオーストリア大使公邸で催されました。久しぶりにお会いする方もたくさんいらっしゃっていて、19年前に『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビューしたころを思い出しました。
実は、2000年の東宝版『エリザベート』初演の制作発表会場が、同じ場所でした。当時、僕は東京藝術大学の学生で、公の場に出るのは初めての経験。制作発表がどんなものか分からないし、衣裳もないので、大学の入学式に着たスーツ姿でタクシーに乗り、「オーストリア大使館に行ってください」と言ったら、着いたのは近くにあるオーストラリア大使館。時間ぎりぎりだったので、「ペーペーの自分が遅れるわけにはいかない」と大慌てでオーストリア大使館に駆け込んだのを覚えています。それを懐かしく思い出して、大使に話をしたら、「ここに来る半分くらいの人が、その経験をしています」って。
自分にできるのはつなぐ役割
あれから19年がたち、『エリザベート』は再演を重ね、本当に多くのお客さまから愛されている特別な作品になりました。今年も6月から8月まで帝国劇場で上演しています。僕はルドフル役を2005年に卒業して、2015年版からは初演で山口さんが演じた黄泉の帝王トート役で出演しています。まさか19年後に自分がトートを演じているとは、当時は想像もできませんでした。オールスターゲームで国歌独唱をするようになることもです。
今では『エリザベート』のカンパニーでも上のほうの立場になり、後輩からは「芳雄さん」と呼ばれています。でも、伝達式で先輩たちと並ぶと、当時は一番下だったなと思い出して、それは今も変わらないので、勲章をいただくのは本当におこがましい立場ではあります。
それでも、自分にできることがあるとすれば、つなぐ役割なのかなと思っています。先輩たちが築き上げてきた『エリザベート』という素晴らしい作品を、次の世代へ伝えていくのもそうだし、ミュージカルを通じて人の思いをつないでいくのが自分の役割だと。今回の勲章も、日本とオーストリアの人たちの心をつなぐ一端を担わせてもらえたということなので、とてもうれしいし、誇らしいことです。ありがとうございました。
1979年7月6日生まれ。福岡県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中の2000年に、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビュー。以降、ミュージカル、ストレートプレイの舞台を中心に活躍。CD制作、コンサートなどの音楽活動にも取り組む一方、テレビ、映画など映像にも活動の幅を広げている。著書に『ミュージカル俳優という仕事』(日経BP)。
「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第49回は8月3日(土)の予定です。
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