女優・浅田美代子さん 「偉そうにするな」母の教え
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は女優の浅田美代子さんだ。
――都会育ちなんですね。
「父親は麻布(東京都港区)で祖父の時代から続く自動車修理工場を経営していました。自宅近くの有栖川宮記念公園にはカブトムシやザリガニがいて、男の子と一緒に木登りもするようなおてんばでやんちゃな子でしたね」
「幼少期に東京タワーができて環境は大きく変わりました。まさに映画『三丁目の夕日』の世界。東京五輪に向けて首都高速ができて路面電車がなくなり、六本木は大人が遊ぶ夜の町に変わりました。私にとって六本木は『本屋さんの町』だったんですよ」
――ご両親はお嬢様学校に入れたかったとか。
「自宅から歩いて行ける所に東京女学館があって、小学校受験をさせられました。私は近所の友達と別れるのが嫌で、面接で名前を聞かれた時に『ない。ママ帰ろう』と言っちゃった。ものすごく叱られましたね。当然落ちました。でも両親とも女学館にどうしても入れたくて、中学でまた受験をして入りました」
――ところが、高校2年生の時にやめてしまう。
「芸能活動は学校の規則でできなかったんです。16歳の時に明治神宮外苑でスカウトされ、最初は断りました。当時、女性の連続殺人事件があって怖かったんです。何度も口説かれて、ドラマ『時間ですよ』のオーディションを受けることになりました。2万人以上の倍率だったから合格するわけないと。そうしたら受かっちゃって翌日には新聞に発表される。それで高校を自主中退したんです」
――でも、吉田拓郎さんとの結婚で芸能界を5年でやめてしまいますね。
「そうなんです。私の人生は親を裏切ってばかり。結婚は特に母が猛反対でした。まだ21歳でしたから。でも仕事で親代わりだった内田裕也さんと樹木希林さん夫妻がまず吉田さんに真意を聞き、それから希林さんが母を説得してくれました。心強かったですね。最後は母も納得してくれた。でも結局、結婚生活は6年程度で終わりました」
――お母さんの言葉で覚えていることは。
「偉そうにするな、とよく言われました。生意気なことを言うと、『そんな偉そうなことを言うなら芸能界なんかやめなさい』と。それが一番の教えでした。母は父と離婚した後、50歳ぐらいで『子供の世話にはならない』とゴルフ関連の会社の正社員になったんです。驚きました」
――自立したお母さんだったんですね。
「60歳を過ぎて私と同居するようになったんですが、68歳で白血病に襲われます。父親の墓に『連れて行かないで』と頼みましたが、70歳で逝きました。一切弱音を吐かなかった2年間の闘病生活。きっと私がみとる時間を作ってくれたんだと思う。芯の強い、本当に格好いい母でした」
[日本経済新聞夕刊2019年6月18日付]
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