不思議なことに、これを書きながらglobeの曲を聴いた気になったのか、ある記憶が鮮明によみがえった。テスト期間か何かで部活がなかった日の夕方、実家の西側にある兄の部屋には夕日が差し込んでオレンジ色に輝いている。薄いカーテンしか閉めてないから光がやけにまぶしい。制服がしまってある簡易クローゼットの前に僕は座っている。家には自分しかいない。たぶん母親は夕飯の買い物に出かけているんだと思う。
急にカレーの匂いが漂ってくる。大きな人参、ちびまる子ちゃんのアニメ。いつのまにか夕方じゃなくて日曜の夜。日曜の夜は定期的にホットプレートを使って焼き肉したなぁ。センター試験の1日目を終えた夜に、家族ですき焼きを食べに行ったことも思い出した。シメのご飯が出てくるのがやけに遅く、糸こんにゃくの切れ端でご飯を食べなきゃいけなくなった。白ご飯をかきこむ父親の姿がよみがえってなんだか悲しくなった僕は、それが数学の出来が壊滅的だった僕を慰めるための外食だったことや、自分も白ご飯をほおばりながら「頑張って親孝行しよう」と考えたことまで思い出した。気づいたら今、とても悲しい気持ちになっている。記憶の力ってすごい。
■受け手が思考するための「余白」
音楽と同じようにラジオ番組も記憶や思考を引き出すトリガーになりやすいのではないか。聴覚も視覚も固定されるテレビのようには思考は制限されない。ラジオ番組に流れる音楽やパーソナリティーのちょっとした言葉をきっかけに、リスナーは思いを巡らせる。つまり番組が発信している以上の情報がリスナーの中に膨らんでいく。それがラジオ番組に対する熱量を大きくしている要因なのかもしれない。
だとすると「表現」は、受け手が思考するための「余白」を含んだ方が、より届きやすくなるのではないか。僕の場合だと表現ツールは落語。落語そのものの面白さは当然として、そこにお客様が自分の記憶を結びつけるための余白のようなものを生み出せば、より強い印象を与えられるかもしれない。
ここでふと「懐かしさ」という感情が思い浮かんだ。これも受け手に「余白」があればこそ、生まれやすい心の動きなのではないか。街を歩いていると、ふとした瞬間に懐かしく感じることがある。下校中の小学生とすれ違ったときや、アパートの換気扇からシャンプーの匂いが漂ってきたときなど、どこかで体験したであろう風景や匂いがきっかけになることもあるけど、見知らぬ場所のはずなのに何だか懐かしく感じることも少なくない。そして懐かしく感じている瞬間は、いつだって心地いい。
「懐かしい」と感じているくらいだから、そこには当然、自分の記憶が関連している。日常の何気ない瞬間がトリガーとなって、その風景以上の情報を僕にもたらしているに違いない。
「懐かしさ」の正体について考えてみたくなったけど「驚くべき証明を見つけたがそれを書くには余白が狭すぎる」と記した数学者フェルマーよろしく、僕もいまここでそれを書く余裕はない。
と書きながら、淡路島に向かう高速バスの景色を思い出している。好きだった人に会いに行ったのだが、そのときに読んでいたのが「フェルマーの最終定理」について書かれた本だ。右手には大きな観覧車、その手前で海鳥が風に流されている。懐かしいなぁ。

これまでの記事は、立川談笑、らくご「虎の穴」からご覧ください。