欧州は5分遅刻が礼儀? 体験的社交術の裏メッセージ『大使夫人にこっそり聞いた失敗しないヨーロッパ式マナーブック』

本書はドレスコードや食器の扱い方、手土産の渡し方などのノウハウも取り上げているが、そこにとどまらない。そうした「目に見えるもの」より、もっと大事なことがあるとでも言いたげな話が登場する。

例えば食事に招かれた際の手土産について、ある外交官に尋ねたときの助言は「楽しい話題をぜひ。それが何よりの手土産です」。社交やおもてなしのために「一番に心がけておくべきこと」を大使夫人に聞いたとき、すぐに返ってきた答えは「健康」。社交のための気持ちの余裕は、健康であればこそ生まれるという理由からだ。

六草さんはそうしたエピソードに触れて「驚き、価値観が変わった」と振り返る。社交というと「セレブ」とか高級ブランドのイメージがつきまとっていたが、そうではなかった。「大事なのは心の健康」。だから本文には、自分だけ招待から漏れた場面に出くわしたときの対処法も書いた。いわく「詮索しない、気にしない」。

「マナーはあくまでも習慣。それは人生を豊かなものにするけれど、人生を豊かにするためにあるわけではない」と話す。「もしヨーロッパで何が人生を豊かにするのかを聞けば、映画を見たり、スポーツしたり、外でおいしいものを食べたりすることと言われるんじゃないかな。マナーは出てこない」と笑う。

森鴎外が「舞姫」を執筆したという日本間が残る水月ホテル鴎外荘で(東京・台東)

六草さんは、森鴎外「舞姫」のヒロイン・エリスが、帽子職人として第2次大戦後まで生きた「エリーゼ・ヴィーゲルト」であることを探り当て、彼女の写真をも発見し、二つの著書にまとめている。ナチスによる迫害の時代を生き抜いたユダヤ人へのインタビューを記録したノンフィクションもある。その筆者が今回は日常のマナーと向き合った。

「マナーには歴史や人間の生き様が反映されていて、人の命のつながりを感じる。私が興味があるのはやっぱり、人がどう生きていたのか、その姿なんです」。「エリス娼婦説」などに義憤を感じて「120年越しの女の友情」を燃やし、それぞれ違った人生を秘めたユダヤ人の言葉を書き残すことを、聞いた者の使命と受け止める。そんな素朴な正義感とマナーは、どこか通じ合うものがある。

自立して生きるためにメーキャップアーティストや陶器の絵付け、レストラン店員などを経験した後、ドイツ人の夫との結婚を機にベルリンに移住し、3人の子を育てた。経済的な不安を抱え、すがる思いで3人目を「マリア」と名づけたとも打ち明ける。本書がハウツー本の枠におさまらないのは、そうした半生のうちに育まれた心の健康の故か。

「喜ぶ友とは一緒に喜ぶ、悲しむ友とは一緒に泣くのが人の基本でしょ」。最高のマナーかもしれない。

六草いちか
1962年大阪府生まれ。88年からドイツ・ベルリンに在住。現地で育児のかたわら雑誌やガイドブックの執筆にあたる。『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(2011年、講談社)でヒロインの実像に迫り、続編『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(13年、同)で鴎外の恋人だった女性の肖像写真を紹介した。著書はほかに『いのちの証言 ナチスの時代を生き延びたユダヤ人と日本人』(17年、晶文社)など。

(天野豊文)

大使夫人にこっそり聞いた 失敗しないヨーロッパ式マナーブック

著者 : 六草いちか
出版 : 大修館書店
価格 : 1,728円 (税込み)

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