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令和の幕開け 中国起源の一世一元制に「孝」の観念 京都大学名誉教授の阿辻哲次氏

2019/5/5

中大兄皇子と中臣鎌足は蹴鞠(けまり)の場で出会い、のちに「大化の改新」を成し遂げた(「大日本史略図会 中臣鎌足」より)=アマナイメージズ提供

元号が「令和」に改まった。阿辻哲次・京都大学名誉教授が中国をはじめとする東アジアの漢字文化圏で長い伝統を持つ元号の歴史を解説する。

■甲子園球場の語源

今日から元号がかわり、いよいよ「令和」が現実に使われることとなった。ここしばらく、耳にタコができるほど聞いた「平成最後の……」という言い回しはなくなるだろうが、かわって「令和最初の……」が氾濫することだろう。

元号とは、過去のある年を起点として、時間の流れを年の経過によって数えたり記録したりする「紀年法」の一つで、いまはイエス・キリストが生まれた年に由来する西暦がもっとも広く使われているが、ほかにもイスラム圏ではムハンマド(マホメット)がメッカからメディナに「聖遷」(ヒジュラ)した年を起算点とするヒジュラ暦(イスラム暦)が普遍的である。

京都大学名誉教授の阿辻哲次氏

いっぽう古代の日本では、甲乙丙丁にはじまる「十干」と、おなじみの子丑寅卯……の「十二支」を組みあわせ、六十通りでひとめぐりする「干支(かんし)紀年法」が広く使われた。歴史で習った「壬申の乱」や「辛亥革命」がその例であり、日本や中国ではこの干支紀年法が元号と併用されることもあった。ちなみに大正十三年(一九二四年)に兵庫県にできた野球場が「甲子園球場」と名づけられたのは、その年の干支が「甲子(きのえね)」にあたったからである。

この元号というものが考え出されたのは、前漢時代の中国だった。

紀元前一一三年のこと、ある川のほとりから鼎(かなえ)という青銅器が出土した。当時の人々の認識では、日蝕(しょく)や月蝕、あるいは地中・水中からなにか珍しいものが現れたりすれば、それは天が人間社会になんらかの意志を伝えようとする現象と考えられ、「天子」がそれに対応した政策をとることが要求された。こうして「元鼎(げんてい)」という元号が作られ、そこからさかのぼって元号を作り、時の皇帝武帝が即位した前一四〇年を「建元元年」とした。

こうしてはじまった元号制度が、やがて日本や朝鮮半島の国々、さらにベトナムに伝わり、それぞれの国で独自の元号が作られた。

日本で最初に作られた元号が「大化」(六四五年)であることはよく知られており、「大化」とはおそらく「大いに民衆を教化する」という意味と考えられる。この命名には時の為政者が抱いていた願望や意気ごみがこめられているが、しかし古い時代の元号は、為政者の願いや抱負を語るよりも、むしろ地震などの天変地異、あるいは飢饉(ききん)や疫病の流行などの災害が起こった時に「厄払い」的に取り替えられる、つまり「改元」されることの方が多かった。

このような状況では、ともすれば改元の頻度数が高くなる。平安時代後期の堀河天皇(第七十三代)は、在位二十二年のあいだに、疾病流行や天変地異を理由として、なんと七回も改元をおこなっている。

中国・殷時代の鼎(イタリア国立東洋美術館所蔵)=アマナイメージズ提供

改元が頻繁におこなわれれば、元号が使われる時間も短くなりがちで、鎌倉時代の四条天皇(第八十七代)の時に作られた「暦仁(りゃくにん)」は、災害発生を理由に「延応」と改元されるまで、わずか二カ月と十四日しか使われなかった。

■同じ日に二つ元号

しかし日本では明治時代からあと、天皇の在位中を通じて一つの元号だけを使うことと決められた。これを「一世一元」制というが、そのルーツもやはり中国にある。

一三六八年に明を建国した朱元璋は、建国時に「洪武」と定めた元号を、そのまま没するまで変えなかった。さらに続く皇帝もそれにならい、こうして明代には自然と一世一元制が定着していった。

この一世一元のシステムが清にも引き継がれたが、その清が滅亡して中華民国になった時に、中国では元号制度が廃止された。

その中国の一世一元では、新皇帝が即位して次の元号を定めても、年末まではもとの元号を使い続け、翌年の元日に改元して新しい元号に切り替えた。そうしたことの背景には、新帝の父(もしくはその尊属)である先帝が定めた元号が完結するまでは喪に服するという、儒教が重視する孝の観念があるが、それとともに、近代的な通信手段やマスメディアがなかった時代に、広大な中国の各地に新元号を周知させるにはある程度の時間が必要だったという、現実的な理由もあった。

それに対して、近年の日本では、改元された日からすぐ新元号が使われた。

日本が一世一元制となってから、明治天皇が明治四十五年七月三十日に崩御すると、のちに大正天皇と呼ばれる新天皇から改元の詔書が発布され、それが即時発効したので、その日が大正元年七月三十日にもなった。それとおなじ理由で、一九二六年十二月二十五日は、大正と昭和の元号をどちらももつ。

だが昭和から平成では、この流れが変わった。覚えている方も多いだろうが、昭和天皇崩御の昭和六十四年一月七日に、元号法に基づいて改元の政令が出され、それが翌八日に施行された。だから昭和から平成へは、同じ日が二つの年号を持つということがなくなった。今回も、四月一日に公布された、元号を「令和」に改める政令(平成三十一年政令第一四三号)は本日施行だから、それで令和は五月一日からとなる。

[日本経済新聞夕刊2019年5月1日付]

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