漫画家・ヤマザキマリさん 母譲り「やるときはやる」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は漫画家のヤマザキマリさんだ。
――今年で86歳になったお母さんは札幌交響楽団(札響)のヴィオラ奏者だったそうですね。
「母は27歳の時、勤めていた会計事務所を辞めて、神奈川の実家を飛び出しました。札幌交響楽団が設立されると知り、自分が本当にやりたい音楽の仕事をするために北海道へ渡ったのです。初の女性メンバーだったそうです」
――札幌で指揮者の男性と結婚し、ヤマザキさんが生まれた。
「父は私が生まれて間もなく亡くなったので、記憶は全くありません。何の頓着もなく『色々あったんだろうな』と思って育ちました」
――子どもの頃のお母さんの姿は。
「お友達の家にいるお母さんとは別の人種に見えましたね。忙しいし、子どものことをあまり構わないんです。仕事が終わると風のように帰ってきてご飯を食べて、寝る、というような生活でした」
「札響だけでなく、個人でも演奏の仕事をしていましたし、子どもたちに音楽を教えたり、外国から演奏家を呼んでコンサートを開いたりもしていました。北海道でクラシック音楽を広めようと、頭の中は常にやるべきことでいっぱいだったのです」
「でも不満は全くありませんでした。むしろ川遊びや虫取りに母がついてくると、足手まといになると思っていたくらい。趣味も性格も違うんです。母は音楽の伝道師で、お嬢様育ち。私は完全に野性ですから。鼻息の荒さだけは似ているんですけど」
――美術の道に進む上でお母さんの影響は。
「中学の先生には『絵では食べていけない』と言われ続けました。でも『誰が何を言おうと、やるときはやる』と思えたのは、母を見ていたから。学校の三者面談で、母も先生に『本人が決めることですから』ときっぱり言っていました」
「17歳で日本の学校をやめてイタリアの美術学校へ入る時も『行くしかないわよ!』と背中を押してくれました。母がそう言うと困難があっても乗り越えられるような気がしてくるんですよね」
――29歳で日本に帰国された時は、未婚のまま産んだお子さんが一緒でした。
「母は『仕方がない、孫の代までは私の責任だ』と言いました。しかもすごく幸せそうで、赤ん坊がかわいくてたまらない様子でした。母の言葉にどんなにホッとしたか。これで一生懸命働ける、母が助けてくれる、子どもも安泰と安心できました」
「『何とかなるわよ』が母の口癖なんです。そして、好きな音楽を聴いた時は『素晴らしいわね』と言い、夕焼けを見て『すてきね』と感激する。生きることは楽しくて仕方がないことだという親の姿を見ていれば、子もそう思うようになるのだと感じます」
[日本経済新聞夕刊2019年4月2日付]
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