「飯島会長から社長を引き継いだときに、社長の心得として年間120日くらいは海外出張するのが黄金比率と聞かされました。私は17年に年130日は海外出張で、地球9周半を移動しました。会社を持続的に成長させるためには、トップ同士の関係をつくるのが大事です。エネルギービジネスの場合、交渉相手は国家元首や資源メジャーのトップであり、社長の自分でないと会えません。膝詰めで話せる仲になっておけば、新しいビジネスを立ち上げるときや、問題が起きたときにすぐに議論ができます。18年11月に決めたマレーシアの民間病院大手への約2300億円の出資は、私とマハティール首相が直接会って最終合意しました」

痛風で足を引きずり交渉も

2015年、安永氏(左)は32人抜きで社長に就任した

――多様なビジネスを手掛ける商社のトップの役割をどう考えていますか。

「三井物産に求められるのは、新しい領域や地域でビジネスの種を見つけて事業を起こすことです。私は『ジャングルガイド』と呼んでいます。未踏の地や新しいビジネスのガイド役として、プロジェクトに参加してくれる仲間を募って、仕事を仕上げるのが役割です」

「ジャングルガイドの精神は三井物産に脈々と受け継がれているDNAです。創業者の益田孝がなぜ社名を『商事会社』とせず、『物産会社』にしたのか。当時は物を産む、つまりつくることが事業を産むことだった。今はモノからコトへの時代ですが、事業を産み出す精神は変わっておらず、これからも事業開発力を高めていかないといけません」

――ご自身もこれまで様々な事業を手掛けてきました。社長になって役に立っていると思う経験は。

「一つ例を挙げると、ロシアからトルコまで1250キロメートルのパイプラインを敷設する大型プロジェクトをまとめたことでしょうか。ロシアと欧州の会社が総額20億ドルの計画を進めており、当初は日本企業が入る余地はありませんでした。しかし、1998年にロシアで金融危機が起こり、情報を集めると資金が不足していることがわかりました。すぐさま日本輸出入銀行(現・国際協力銀行)や通産省(現・経済産業省)に、融資と貿易保険の適用が可能か打診しました」

「責任者として1年の半分は日本を離れて、融資や建設の交渉を同時並行でやりました。まだ40歳ぐらいでしたが痛風の発作が出て、足をひきずって交渉相手と会いました。『痛くてたまらないから早く妥結しよう』と言うと、交渉相手から一方的に譲歩を迫られました。『冗談じゃない』と返したので、つらい生活がしばらく続きました。交渉はウィンウィンじゃないと妥結できません。何度もプレゼンをして提案を受け入れてもらいました」

――そこから得られた教訓は。

「リーダーとして責任を持って計画をやり遂げることの大切さを学びましたね。当社には長年の取引で築いた豊富なネットワークがあり、新事業を自社だけで起こすのでなく、様々なパートナーと組むことはあっていい。ただ、ビジネスをより良いものにして完遂させるという責任感をきちんと持っているかどうか。いわばコミットメントですね。そこは社員にしっかり問うていきたい」

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縦割りの部門を超えた混成チームで成果