三菱商事元会長に聞いた(上) 留学生活こんなに違う、今と昔廣津留すみれのハーバードからの手紙(6)

米ハーバード大4年生/演奏家 廣津留すみれ

米ハーバード大4年生/演奏家 廣津留すみれ

今回はハーバードの大先輩であり、三菱商事の社長・会長を歴任された槇原稔さんにお話を伺いました。インタビューは、上編はハーバード大学での日々、中編は日本の教育と社会人への第一歩、下編は社会生活、英語の話、そして若者への提言、の3回に分けてお届けします。

廣津留 まず、ハーバードでの生活やSummer in JAPAN(※1)の活動にしても、Diversity(多様性)というキーワードが大変重要になっている昨今です。槇原さんの学生時代はまったくその捉え方が違ったと思うので、生徒同士が話す雰囲気から、また学校が組織としてDiversityをどう見ていたかをお聞きしたいのですが。

槇原 (ネクタイを指して)これはセントポールスクールのネクタイですけどね、当時は直接ハーバードに入ることは不可能で、まずセントポールに1年行きました。これも大変貴重な経験でしたが、その後ハーバードに進みました。なぜハーバードを選んだかというと、Harvard Divinity Schoolを出た方に大変お世話になったことだとか、過去のいろいろないきさつがあって、ハーバードを目指しました。

槇原稔さん 2010 年より現在まで、三菱商事株式会社特別顧問。1956 年同社入社、米国三菱商事ワシントン駐在員首席、米国三菱商事会社社長および三菱商事株式会社取締役社長を経て、1998 年会長に就任。現在は三菱UFJ モルガン・スタンレー証券株式会社、三菱倉庫株式会社の取締役でもあり、その他、三極委員会代表委員、Harvard Asia Center アドバイザリーコミッティメンバー、シンガポール・Temasek 社インターナショナルパネル名誉委員、英国・Hakluyt 社国際諮問委員会委員、米国・McLarty Associates の諮問委員会委員等を務める。又、財団法人東洋文庫理事長およびカルコン(日米文化教育交流会議)の日本側顧問を兼任

その頃のハーバードと今のハーバードがどういう風に違っていたかというと、まさにセントポールスクールも同じですが、まず1番大きい差は、女性が入って来たことでしょう。恐らくこれで雰囲気が大きく変わったんだと思いますよ。

また、僕はClass of 1954(1954年卒業)ですけど、当時、黒人の数はカレッジ全体では1人とか2人とかそんな感じだったわけですよ(筆者注:黒人の割合は現在約10%)。これは大きな差ですよね。

それから当時は、セントポールスクールでもハーバードでも先生と話すときには「先生」、たとえば「ミスター○○」と呼びかけていました。ところが、後にハーバードに行っていた僕の長男の時代には、みんな先生のことをファーストネームで呼んでいる。数十年前に長男と一緒にセントポールスクールの先生のところに呼ばれた時には、僕が世話になった先生のことを「Mr.Lloyd」と呼ぶと、息子は「Frank, how are you?」なんて言うわけですよ。非常に不思議な感じを受けました。

廣津留 面白いですね。確かに私たちも教授をファーストネームで呼ぶことが多いですね。

槇原 息子の方が偉そうに聞こえてね。それだけインフォーマルな雰囲気が広がってきた。総じていうと、ハーバードというのは前から自由闊達な大学であったと。そして女性・男性という問題も当時と比べて進化してきたし、それから人種の問題も大きく自由化されてきた、とかですね。

当時はみんなスーツでしたよ

廣津留 では今と比べて校内の雰囲気が全然違っていたんですね。

槇原 当時はみんな(スーツを指して)こんな格好でしたよ。ブレザーとかね。卒業して20年くらい経つ頃かな、たまたまハーバードに戻る機会があって、Mr.Hightowerという中国専門の有名な学者に、「見回すと学生が皆インフォーマルな格好をしているけれども、僕の時代と比べて質はどうだ?」と聞いたら、「いやあ、変なことを聞くね。今の連中の方が君たちより格段にレベルが上。よくできるよ」と返ってきた。理由を聞いたら、「それは簡単だよ、競争だよ」と。「君のときには4人に1人ぐらい入ったのかな。今は20人に1人くらいだ」というんです。今はもっと減ってるだろうけど(筆者注:2015年度入試の合格率は5.3%)。

廣津留 そうですね、特に自分の周りの学生は大変勤勉で、競争心が格段にあるなと感じますね。当時日本人は何人くらいいましたか?

槇原 僕が行ったときは、たまたま1学年に1人ずついました。

廣津留 その時代はそれが普通でしたか?

槇原 いやそれは非常に多かったんじゃないですかね。その時代としてはね。ちょうど戦後ですからね。今は何人くらいかなあ。

廣津留 今は、1年生から4年生まで合わせて10人ぐらい。日本の高校からはやっぱり1年に2、3人です。

槇原 もっと増えないといけませんよね。入るのが大変でしょう。あなたよく入りましたね。

廣津留 そうですよね、私も大変でした。大学時代からお付き合いが続いている友人の方は多いですか。

槇原 今はクリスマスカードの往復をする友人は20人くらいいるかな。でも本当に親しくしているのはセントポールスクールからハーバード、その頃のルームメイトね。これは5人ないし10人ですね。

廣津留 一番印象に残っているルームメイトとの思い出はありますか。

槇原 まあいっぱいあってあれだな、なんといっていいか......(一同笑)。

槇原稔さん(左)にインタビューする筆者

寮が決まる日にはパレード!

廣津留 印象深い学校のイベントは何ですか。私にとっては学校のHousing day(※2)がとても印象に残っています。自分の寮が決まる日はパレードでした。当時あったかどうかわからないですが......。

槇原 それはなかった。当時は入りたい寮に希望を出せたんです。私はAdams Houseですけど、そこを選んだ理由はね、1つ目は超一流の日本の経済学者の都留重人さんがAdams Houseだったんですよ。2つ目はプールがあったんですよ。今はなくなっちゃったみたいですけど。

廣津留 今は劇場になっています。

槇原 もったいないですねぇ。それから3つ目はAdams Houseはとにかく食べ物が美味しいって有名だったんですよ。

廣津留 そうなんですね。今は私が住んでいるDunster Houseが美味しいって有名です。

槇原 それから(エドウィン)ライシャワー先生(※3)が当時Adams HouseのNon-resident tutor(寮専属のアドバイザーのようなもの)の1人だったんですよね。ですから時々食事やなんかも一緒にできたし。全寮制であるということは大きな特徴でしょうね。僕は日本では成蹊ですけど、僕がいた頃は高等学校の一部は寮生活でした。今はもう寮はありませんが。

廣津留 最初セントポールに行ったとき、カルチャーショックはありませんでしたか?

槇原 うーん。そんな暇なかったよ(笑)。

廣津留 私も1年目はホームシックになる暇もなかったです。

槇原 1年目からハーバード? そりゃ大変だ。

廣津留 大分から突然ハーバードに行ったので何もわからず、1年目はなかなか忙しかったです。

槇原 それまではずっと九州?

廣津留 はい。生まれてから18年間、ずっと大分に住んでいたので。

槇原 よく英語の勉強ができたね。

廣津留 会話は大学に入ってから慣れたというのが1番大きいですけど、大分ではとにかく単語をひたすら覚えて、という生活でした。

槇原 はっはっは。

(続く)

※1 Summer in JAPAN  ハーバード大学生が講師を務める教育サマーキャンプ。廣津留すみれが団体共同設立者として故郷大分市で毎夏開催、7歳から20歳の国内外の子どもたちが英語でリベラルアーツを学ぶ。

※2 Housing day 1年生の後半に行われる、2年生から4年生まで住む寮が決まる日。完全にランダムに振り分けられるため、1年生はこの先3年の未来を左右する自分の寮の発表が気になり、上級生は1年生を歓迎するために、早朝からキャンパス全体がお祭りムードになる。

※3 エドウィン・ライシャワー 東京生まれ。ハーバード大学教授として日本研究に多大な実績を残す。駐日アメリカ大使(1961~1966)

Housing Dayの様子。筆者の住む寮、Dunster Houseの仲間と
廣津留すみれ(ひろつる・すみれ)
1993年生まれ、大分県立大分上野丘高校卒、米ハーバード大4年生。英語塾を経営する母親の影響もあり、4歳で英検3級に合格。3歳から始めたバイオリンで高1の時に国際コンクール優勝。大学では2団体の部長やオペラのプロデューサーなどを務める。2013年からハーバード大の学生らとともに子どもの英語力を強化し表現力やコミュニケーション力を引き出す英語セミナー「Summer in JAPAN」を大分で開催している。
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