「飛行機なんて」 ホンダジェット、役員たちの罵倒
Mr.ホンダジェットの執念(1)
フェラガモの靴のような流麗なくちばし、主翼の上に円筒型エンジンを置いた独特のフォルム――。7人乗りのビジネスジェット機「ホンダジェット」が昨年12月20日、日本でデビューした。創立70年を迎え、かつてのような輝きを失っていたが生み出したイノベーション(革新)。それを担ったのは傍流のエンジニアたちだ。5回連載で彼らの物語をお届けする。
特攻の生き残りだった父
眼下に富士山が見えた。その威容を目の当たりにしたとき、ホンダエアクラフトカンパニー社長の藤野道格(58)は思わず忘れかけていた言葉を思い出したという。
「秀麗富嶽を仰ぎ見て……」
特攻隊の生き残りだった藤野の父が、戦時中に家族にあてたはがきの書き出しにこうつづられていた。木製の翼で爆弾を抱える「白菊」に乗り込むはずだったが、待機中に終戦を迎えた。すでに他界した父が、若いころに死を覚悟して書いた言葉を思い出したとき、藤野は「なぜか心に火がついたんです」と言う。
70歳のホンダ、失った魅力
ホンダジェットはすでに2017年、米国での年間納入機数がセスナ社の主力機を上回った。これを日本にもってこられないか。調査したところ、日本のビジネスジェット保有機数は100機に満たない。利用可能な空港は全国に84カ所あり、富裕層や企業向けに潜在的なニーズは高いと判断した。「ビジネスジェットは日本の交通システムのひとつになる」。富士山上空での思いつきが確信にかわった。
ホンダは昨年創立70周年を迎えた。ただ、売れるのは軽自動車ばかり。かつてアイルトン・セナを擁してF1で優勝したときのような、若い世代が共感するブランドではなくなっている。そんな中でホンダジェットはさっそうと凱旋した。
いまのところ年間50機ほどしか生産できない小型旅客機がいまのホンダの屋台骨を支えるわけではない。しかし、自動車産業が激変を迎えている今、その開発物語はエンジニアを奮い立たす清冽(せいれつ)さがある。
会社は本気なのか
ここまでは苦難の連続だった。始まりは1986年2月ごろ。上司からの予期せぬ打診だった。
「今度、ウチが飛行機をやることになったそうだ。君はそっちに行ってもらいたい」。藤野は航空学科出身だが、入社2年目で電動パワーステアリングの開発に没頭していた。
会社は本気で飛行機参入を考えているのか――。上司は「何も知らされていない」と繰り返すばかりで要領を得ない。
その年の4月、藤野たち航空機の研究チームは埼玉県和光市にある研究所の西の端にある部屋に集められた。「家族にも極秘」と命じて航空機の研究に当たらせたのが、当時ホンダの技術陣を率いていた川本信彦だった。
川本氏の先見
川本はホンダが苦境に陥った1990年代に社長を務め、独裁的手法でホンダの企業体質を変えたといわれる。80年代、ホンダは「インテグラ」や「プレリュード」といったスポーティーなセダンをヒットさせたが、コストがかかる金食い虫となり業績が落ち込んだ。
川本は「ホンダらしさはいらない。普通の会社になる」と宣言し94年以降、「オデッセイ」や「CR-V」「ステップワゴン」などのファミリーカーをヒットさせた。
経営再建のためにホンダらしさを放棄したように見えた川本だが、その陰で航空機の極秘プロジェクトを進めていたのだ。川本は「車にパワーを取られて、先端技術に挑戦しないままじゃ、いつか途上国(の後発メーカー)に追いつかれると思った」と振り返る。
ホンダにとって航空機参入にはもうひとつの意味がある。川本らホンダの古参幹部が「オヤジさん」と慕った本田宗一郎の悲願だった。1917年5月28日の出来事を、宗一郎は生涯語り続けた。
本田宗一郎、10歳の夢
10歳だった宗一郎はまだ夜も明けないうちに両親に黙って自宅を飛び出した。自転車で向かったのは20キロ以上離れた浜松練兵場。アート・スミスという米国人飛行家が曲芸飛行を披露しにやって来るとの話を聞いていたからだ。
手には自宅からくすねた2銭を握りしめていたが入場料は10銭。諦めきれない宗一郎は松の木によじ登って飛行機を…
[日経電子版2019年1月7日付]
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