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置かれた場で生き抜く 宇喜多秀家に学ぶ環境適応術 こちら「メンタル産業医」相談室(29)

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2018/12/14

写真はイメージ=(c)Leah-Anne Thompson-123RF
日経Gooday(グッデイ)

華やかなイルミネーションが目を楽しませてくれる12月、皆様の心と体はお元気でしょうか? こんにちは、精神科医・産業医の奥田弘美です。

さて私事で恐縮ですが、11月にNHK BSプレミアムの「偉人たちの健康診断」という番組にビデオ出演し、「宇喜多秀家のストレス対応能力」について精神科医としての見解を述べるというちょっと面白いお仕事をしました。

実は私、歴女のレベルではありませんが、歴史や古典はかなり好きな方でして、自分の興味ある歴史上の人物について深掘りしてはひそかに楽しむことを趣味としております。しかし今回ご依頼のあった安土桃山時代の武将「宇喜多秀家」に対しては、「関ヶ原の戦いで、負けグループの西軍にいた大名」という薄~い印象があった程度で全く興味もなく、彼の性格や人生についてはほとんど知りませんでした。

で、慌てて関係資料を熟読しつつ、自らもいろいろ検索してみたのですが、これが意外や意外、知れば知るほど彼が非常に興味深い人物であり、かつ現在のビジネスパーソンにとって学ぶところの多いストレス耐性を有していることが分かってきたのです。そこで本連載の場を活用して、筆者の気付きをシェアしたいと思います。

■天国から地獄までを見た男

まず宇喜多秀家の経歴をご紹介しましょう。

宇喜多秀家は、1572年(元亀3年)生まれ[注1]。没は1655年とされ、安土桃山時代の戦国時代から江戸時代前期まで生き抜いた武将です。関ヶ原で豊臣方についた西軍の主力でありながらも奇跡的に斬首されず、その当時としてはまれな84歳という長寿を全うしました。しかしその生涯はまさに文字通り波乱万丈で、天国から地獄まで垣間見た人生だったといえるでしょう。

宇喜多秀家が築城した岡山城。1945年に空襲で焼失したが、戦後に再建された。写真=(c)Werayut Banjongkaew-123RF

秀家は生まれながらのトップエリートでした。父・宇喜多直家の死後、幼くして家督を譲られ備前岡山城主となります。父の代からの忠臣に守られながらすくすくと成長し、時の天下人・豊臣秀吉からも、めでたく寵愛を受けました。秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室として賜り、秀吉の期待に応えるべく武功も順調に上げ、20代半ばには豊臣政権の五大老の一人に抜擢されます。こうして秀家は若くして破竹の勢いで出世階段を上りつめていったのです。

しかし秀吉の没後、その右肩上がりの人生は一転して急降下します。関ヶ原の戦い(1600年)に西軍の主力として戦うも大敗し、秀家はほうほうのていでわずかな家臣とともに伊吹山中に逃げ込む羽目に。超エリート大名がわずか1日で落ち武者に転じ、徳川方の追手をかわしながらの逃亡の日々が始まったのです。

秀家は郷士にしばらくかくまわれたのち、京都へ。その後、西軍として共に戦った島津家を頼って薩摩に落ち延びます。薩摩国では、それなりの待遇を受けてつかの間の穏やかな日々を過ごしたようですが、3年もすると徳川方に嗅ぎつけられ、秀家は出頭することに。これで命運尽きたかと覚悟しましたが、前田家・島津家の助命嘆願によって死罪を免れ、1606年(慶長11年)、2人の息子、そして家臣らと八丈島へ流刑に処せられることになったのでした。

のちの江戸時代に流刑地として有名となったこの島に、秀家は第1号の流人として送られたわけなのですが、彼は島でしっかりと根付き、約50年もの年月を送り、1655年(明暦元年)、84歳の長寿を全うし天に召されました。関ヶ原を戦った武将の中では秀家が最も長く生きたとされます。また秀家の子孫はその後も途絶えずに幾つもの分家に別れて繁栄し現在まで脈々と続いているそうです。

■生きざまからうかがえる特筆すべき「ストレス耐性」

いかがでしょう? 歴史通以外は、秀家の生きざまを詳しく知らない人も多いと思いますが、なかなかドラマチックな味のある人生だと思いませんか? 表面だけなぞると、苦労知らずの超セレブな若殿が、流人に落ちぶれ辛酸をなめながらも生きながらえたと捉えられがちですが、筆者は精神科医として、秀家には特筆すべき「ストレス耐性」があったのではないかと感じます。

[注1]年代・事跡などについては諸説あります。

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