ぴあ 矢内広社長学生だった1972年に雑誌「ぴあ」を創刊して以来、半世紀近く、ぴあの経営を担ってきた矢内広社長(68)。情報化時代の流れを巧みにとらえ、次々と事業を拡大するとともに、数々の試練も乗り越えてきた。「節目節目で先手を打ってきた」という決断力に迫る。
■プラットフォーマーの「先駆け」 海外でも理解されず
――雑誌の「ぴあ」が順調に部数を伸ばしていた84年にチケット販売に乗り出しました。様々な情報を集め、ワンストップで顧客のニーズに応える仕組みはプラットフォーマーの先駆けとも言えそうです。
「映画や演劇、音楽などの情報を網羅した『ぴあ』という情報誌によって多くの人が映画館や劇場に行きやすくなったわけですが、店でチケットを買うというハードルが残っていました。これをIT(情報技術)で解決しようと考えたわけです。私の中ではチケットも雑誌も根幹は同じでした」
「チケット事業に参入したとき、当社は出版社ではなく情報伝達業だと定義し直しました。コンピューター技術に出合い、雑誌という形にこだわる必要はない、新しい情報メディアが出たらそれに自分たちが持っている情報を流せばいいと考えました。まさかその後、雑誌がなくなるとまでは思いませんでしたが」
「当時は役員も銀行も『雑誌が好調なときにリスクを冒してまでやる必要があるのか』と反対し、四面楚歌(そか)の状態でしたね。メインバンクの頭取に相談に行ったときに日本興業銀行(現みずほ銀行)の産業調査部を紹介されました。当時はそれがどんなにすごい組織か知りませんでしたが、とにかく事業を実現したい一心で駆け込みました。海外の動向や国内のチケット流通の仕組みまで3カ月ほどかけて調査してもらい、『事業性あり』という結論が出た。すると社内も他の銀行も『興銀が言うなら』と納得してくれました」
「85年ぐらいに、ロンドン、ニューヨーク、パリなどにある海外のエンターテインメント情報誌の経営トップに順番に面会に行きました。ぴあは情報誌に加えてチケットの販売もやっていますと話をしたのですが、不思議なことに誰も興味を示さなかった。米国なんて新しいビジネスに貪欲な国ですから飛びついてくると思ったのですが、『私たちは出版社ですから』と一様に言うんですよね」
――チケット参入は吉と出たわけですが、その足をすくわれるような試練もありました。2008年3月期にオンラインチケットのシステム障害に伴う売り上げの急減で最終赤字を計上しました。
「経営の難しさを本当に実感した出来事でした。改修作業で取り扱うチケットの削減を余儀なくされ、資金繰りが悪化。このままでは債務超過になりかねないとして、先回りをしてリストラを実施しました。財務面では凸版印刷やセブン&アイ・ホールディングスへの第三者割当増資を決断しました」
■経営の立て直しで学んだ、諦めない心
1984年、チケットぴあ開始を発表した記者会見(中央が本人)=ぴあ提供「最も歯がゆかったのは、結局、私はシステムについては何も知らなかったので、どうしたらいいのかわからなかったということです。権限委譲も必要なことで任せていたのですが、チケットが収益の柱になっているぴあにとってITは根幹になってきているから避けて通れない。私がシステムを勉強しても限りがありますから基本的には任せるんですが、任せきりにしてはいけなかった」
――「任せるけど任せない」というのはどういうことでしょうか。
「松下幸之助さんが残した言葉『任せて任せず』がオリジナルです。当時、社外取締役として招いた、元松下電器産業(現パナソニック)副社長の佐久間●(日の下に舛)二さんから教わりました。自分の専門外でわからないことも当然ありますが、ビジネスを進めるときには、例えばコストがどのぐらいで、どんな効果があって、いつまでにやるべきで、顧客にどんなメリットがあるのかといった基本的な考える枠組みというのはある。その枠組みのところまでは任せないということです」
「私は当時58歳。佐久間さんは62歳で松下の副社長からWOWOWの社長になって、債務超過の状態から経営を立て直しました。『矢内さんは若いんだから、必ず方法はあるんだ』と随分、励まされました。どんな逆境でも諦めないことを教えられました」
「私は新しいことをやろうとするときに、これは将来どうしても必要なことだという強い信念があれば、周囲がどんなに反対しても諦めずに説得して突き進んできました。一方で、会社が赤字になって立て直すというのは創業30年以上たって初めての経験でした。新しいことをやろうとするときとは、また違った性質の諦めない心というか、不屈の精神を学びましたね」
――11年には自ら始めた雑誌「ぴあ」を休刊しました。
「当時も雑誌はぎりぎり赤字ではなかったんですが、インターネットが主流の現代において、この先また右肩上がりに戻ることはないだろうと考えました。悪くなってからの判断だと、マイナスが大きくなるかもしれない。多少余力のある時期に決断しようと思っていました」
「社長の私がつくった雑誌でぴあという会社は成長してきましたが、その創業の雑誌をやめるという決断を社長がしたということは、もう出版社ではない、会社が変わろうとしているんだという、社員への強いメッセージにもなって伝わったと思います」
■危機のときも、前に進むときも、最後は胆力
経営者には先が見えていないといけないと語る――好調なときも危機のときも、先手を打ってきました。変化の激しい時代に経営者に求められることは何でしょうか。
「先が見えていることだと思います。雑誌がまだ好調なときにチケット販売を始めましたが、もし当時、コンサルティング会社に助言を頼んでいたところで、到底、チケットビジネスを始めるべきだなんて回答は出てこなかったでしょう」
「危機のときも、前に進むときも、最後は胆力ですね。決めるということは責任をとるということです。決めないことには進まない」
――半世紀近く経営トップを続けていますが、後継者は考えていますか。
「デジタルシフトや上場、経営危機と、ずっと走り続けてきましたから、正直なところ、最近までは全然考えていませんでした。しかし経営危機も乗り越えて、次のステージに行こうとしています」
「『100年先も残る企業を目指そう』と言っているうちに私ももう68歳。何歳までとは決めていませんが、自分の体と頭がしっかり動くうちに決めたいと思っています。最近も取締役会で、経営者に求められる条件について話しました」
「まずは、利益を追求しつつ社会に貢献することを車の両輪として前に進む、これを実現しようとする高い志と強い意志を持っていることです。これが一番重要ですね。そして、先が見えること、自己犠牲の精神も必要です」
――ぴあという会社は何を目指していくのでしょうか。
「19年はラグビーのワールドカップ、20年には東京五輪があり、どちらも当社がチケット販売業務を受託しています。さらに20年には横浜市で自社運営する1万人収容の『ぴあアリーナMM』も完成予定で、エンターテインメント企業としてより深化していきます」
「エンタメや文化をより多くの人が享受できるような環境整備も含めて、人々の人生を豊かにできる会社になりたいと考えています。チケット流通だけではなくて、興行を主催したり、アプリ版の『ぴあ』を創刊したり。『感動のライフライン』と社内で呼んでいるのですが、バリューチェーンとしてつないでいこうとしています」
矢内広
1973年中央大法卒。在学中の72年に雑誌「ぴあ」を創刊。74年にぴあ株式会社を設立し、社長に就任。84年にチケット流通事業に参入。2003年、東証1部上場。福島県いわき市出身。
(安田亜紀代)
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