当時は少しつめたいと感じましたが、今はその通りだと思います。振り返ることで発見があるというのは美しい感じがしますが、そこから何か新しいものが積極的に生まれることはあまりないような気がします。

芸高に進んだ後も、「場違い感」は消えなかった。

もちづき・みさと 1969年東京生まれ。東京芸大大学院修了、パリ国立高等音楽院修了。芸術選奨文部科学大臣新人賞、ユネスコ国際作曲家会議グランプリなど国内外で受賞多数。近年は脳科学に触発された作曲などで現代音楽をリードする

音楽の専門学校に入れば少しは「自分のいるべき場所だ」という感覚が持てるかなと期待しましたが、今度はみんな音楽が好きで好きで仕方のない人や、ものすごい音楽の知識を持った人ばかり。すでにピアノやバイオリンのコンクールで入賞してスターのようになっている在校生もいるなか、嫌というほど「自分は何者でもない」と感じていました。作曲科に入って「こんなどこかで聞いたような曲ばかり書き続けていてもだめだな」と何となく分かっているんですが、当座の目標はまず芸大受験……。

学校生活は楽しかったし、いろいろユニークだな、と思うことはありました。例えば授業でテニスやスキー合宿もあるのですが、これは将来、留学した際、社交として役立つから、ということだったようです。作曲科の私はその後ヨーロッパに行ってもテニスで社交する機会なんて全然ありませんでしたが、楽器の友人はけっこう役立ったと言ってました。それから、なぜか全員の全教科の成績が発表されるのにびっくりしました。「〇〇さん、実技もお勉強もできるんだね」とか、みんなけっこう興味津々で見ていました。

「先が見えない」というのが、長い間、悶々と悩んだ大きな理由だったと思います。高校時代、青学の友だちから「京はいいよね、将来が決まっているから」と言われたときには、「え?決まっちゃってるの?」と逆に驚きました。身近に作曲家のロールモデルもいなくて、「ああいう感じになるんだ」と空想ができなかったんですね。指揮者なら小澤征爾さんとか、イメージできますよね。いま存命の作曲家なら、みなさんが思い浮かべるのは坂本龍一さんや久石譲さん、小室哲哉さんなどでは。現代音楽の作曲家で、しかも女性で、というと、当時は身近に心当たりがなく、「自分はいったいどうなっちゃうんだろう」という逡巡が続きました。

結局、作曲家になると決めたのは遅くて、パリに留学中、26歳ぐらいになってからです。早く経済的に自立したいと思い、通訳の採用試験を受けに行ったときのことです。てっきりアルバイトのようなものだと思ってセーターとパンツで行ったところ、周りはみんなスーツ姿。一人だけ遊びに来てる感じで「あれ?」と思いましたが、まぁ言葉ができればいいだろうと思って面接の席に着きました。目の前に翻訳する文章が置いてあるのですが、読む前に面接官から「芸大だもんね。しょうがないよね」って言われて。翻訳もさせてもらえずに雑談だけで帰されまして、もう作曲でやっていくしかないらしい、と初めて決意しました。