俳優・佐野史郎さん 父の昭和の頑固オヤジ像に憧れ
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優の佐野史郎さんだ。
――東京育ちですね。
「山梨県で生まれ、すぐ東京に越しました。父は勤務医で、結婚したばかり。その後弟が生まれ親子4人の幸せに満ちた暮らしでした。父はラジオ工作やバイオリンが趣味で、音楽が身近にありました。東京オリンピックが開かれる前で、新宿駅がまだ木造だったのを覚えています。当時の東京が原風景です」
――小学1年生の3学期に突然、松江市に引っ越す。
「佐野家は幕末から続く医者の家系で、長男が継ぐのがしきたり。父は4代目として、実家に帰ったのです。古い木造家屋で祖父母や叔母と同居し、看護師さんも住み込んでいる大所帯です。隣の病棟から消毒液の臭いが漂ってきて、おどろおどろしい。魑魅魍魎(ちみもうりょう)に追い回される夢を見ました。恐怖でした」
――佐野家の長男として、将来は医者にというプレッシャーを受けた。
「みんな当然のように僕が家業を継ぐと思っていたし、父にもその重圧がありました。僕も応えなければという気持ちがなくはありませんでしたが、何しろ勉強ができなかった。中学、高校生になると映画や音楽や文学や、学校以外の好きなことがいっぱいで楽しくてしょうがない。『東京に帰りたい』という思いもあったし、家への反発もあった。母も文学が好きだし、両親とも表現に対する理解はあったけれど、長男は医者というルールから外れることは許されない状況でした」
「高校2年になる前、親戚が集まって一族会議が開かれました。成績は悪いしやる気もない。やっと『これは無理だ』となり、弟に託すことになりました。諦められてからは何も言われなかったですね」
――その後お父さんとは。
「2000年に亡くなる直前、病床の父を安心させようと『家のことは心配しなくていい。大丈夫だから』と話しかけました。父もうなずいてくれました。俳優として暮らしていけるようになってはいましたが、家を守るという僕の言葉に根拠なんてあるはずがない。それでも父は家族の物語を信じようとしていました。まるでテレビドラマを見ているようでした」
「家業の医者は弟が継いだのですが、佐野家長男の役割は私が引き受けています。昨年は父、祖母の十七回忌と祖父の五十回忌を取り仕切りました。佐野家の物語を生き抜くこともまた役柄の一つと捉えているのかもしれません」
――俳優として、お父さんを意識することは。
「髪の薄くなった額から立ち姿まで急激に父に似てきたなと感じます。最近、テレビドラマの『限界団地』で孫を持つ老人を演じました。父と同じようにシャツのボタンを一番上まできっちり留めて。昭和の頑固おやじ像に対する憧れがあるんでしょうね」
[日本経済新聞夕刊2018年8月28日付]
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