中世欧州で珍重されたセイウチ牙 辺境の地と貿易判明
今から1000年ほど前、ノース人と呼ばれる北欧の人々は、氷に閉ざされた辺境の地グリーンランドまで足を延ばし、定住していた。当然ながら、楽に生活できる環境ではない。彼らはなぜそこにとどまり、どのように生き延びたのだろう?
考古学者を長らく悩ませてきたこの謎に、一つの答えが示された。
農業と漁業で生計を立てていたノース人には、もう一つ、重要な収入源があったというのだ。彼らは欧州を相手に貴重なセイウチの牙を取引していたらしいとする論文が、2018年8月8日付け学術誌「英国王立協会紀要B」に発表された。
教会の装飾やチェスの駒に
セイウチの牙は中世初期の欧州で、北方のエキゾチックな素材として珍重されていた。多くの教会がこの牙を装飾に使い、金持ちたちは牙に細かい彫刻を施し、チェスの駒にした。しかし最近まで、これらの牙がどこから来たのかはっきりわかっていなかった。近場のスカンディナビア半島周辺の海、それとも、もっと遠いグリーンランドの向こう側(西側)の海でとれたものなのだろうか?
そこで今回の研究が手がかりにしたのは、セイウチのDNAだ。アイスランドやスカンディナビア半島周辺のセイウチと、グリーンランド西岸やカナダのセイウチはDNAがわずかに異なる。研究チームは欧州全域の美術館や博物館でセイウチの牙やその加工品を探し、DNAを調べることで、その出身地を特定した。
結果は驚くべきものだった。
欧州各地でコレクションされているセイウチの牙のうち、1100年代までのものはほぼすべて、近場である東の海域でとれたものである可能性が高い。具体的にはバレンツ海やアイスランド、スバールバル諸島などの海域だ。
しかし、その後の数百年、西暦1400年ごろまで、牙の出どころははるか遠くの西側の海域に生息するセイウチに変わっていた。これはグリーンランドに定住したノース人が、ヨーロッパと牙を取引していたことを示唆している。
研究を率いたノルウェー、オスロ大学の古代DNA専門家バスティアン・スター氏は、この地理的な変化は「かなりの驚き」だったと語る。
「欧州から近い東のセイウチが乱獲されたためでしょうか? それとも、グリーンランドからヨーロッパへの輸出が活発になり、貿易の独占が進んだのでしょうか?」
貿易に頼るしかなかった
グリーンランドに暮らしていたノース人を研究するデンマーク国立博物館のジェッテ・アルネボルグ氏は、第三者の立場で、グリーンランドの沿岸地域はとても寒く、そこでの生活はかなり厳しいものだったと説明する。ノース人の入植者は生きるために必要なものを持ち合わせていなかったため、ヨーロッパとセイウチの牙をつかって貿易するしかなかったのだろう。
「グリーンランドで生き延びるには、貿易に頼るしかなかったのでしょう。鉄など、現地では手に入らないものがいくつもあったためです」とアルネボルグ氏は話す。「そのため、彼らは入植したその日から、何か取引できるものを見つけなければなりませんでした。それがセイウチの牙だったと、私たちは考えています」
しかし、1400年代半ばまでに、ノース人はグリーンランドから立ち去り始めた。気候変動と海面上昇が原因で、ささやかな農地が荒廃してしまったためだ。一部の考古学者は、重要な貿易相手だったノルウェーとの接点を失った可能性を指摘している。
アルネボルグ氏は「ノース人の入植者たちはセイウチ貿易に依存していました」と述べたうえで、1つの大きな可能性として、「ヨーロッパとの接点を失い、貿易できなくなり、苦境に陥ったのでしょう」と指摘した。
研究を率いたスター氏は「私は初期のグローバル化の記録だと考えています」と話す。「この時代にはすでに、ヨーロッパでの需要が遠く離れた北極圏に影響を与えていたのです」
(文 ALEJANDRA BORUNDA、訳 米井香織、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2018年8月10日付]
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