安部氏は現在、若い世代に自身の経験を伝えるため、精力的に活動している

だから、オヤジのすごさを間近で見るにつけ、「こういったことは、どういう考えで、どのように作っていったのだろう」と思いをはせるようになりました。後に、自身がステージアップしてからも、この考え方がいろいろな場面で役に立ちました。でも、オヤジがこう言っていたことも心にとめています。「真剣に掘り下げていくと視野狭窄(きょうさく)になるからときどき修正が必要だ。そのために、コンサルタントに耳を傾けることがあってもいい。ただ、その通りにやっていたら会社はつぶれるぞ」と。

--牛丼の価値は築地時代から変わってきました。

築地店では、立地条件の特殊性から「早さ」を優先し、大成功を遂げました。しかし、視野狭窄にならないよう修正した結果が、「うまい」を最優先するということでした。品質スペックを維持しながら、ポピュラープライスとして極力安くし、クイックサービスを実現する。品質本位というのは手あかのついた言葉ですが、吉野家にとっては普遍的な価値です。「安い」と「早い」はマーケットのそのときどきのニーズで変わることはあるけれど、「うまい」の最優先は変わることはありません。

1970年後半、オヤジは牛肉の調達量の制約から国内は200店が限界と見ていましたが、急成長していつしか「目指せ300店」との掛け声がかかるようになっていました。予想通り吉野家のスペック部位である牛肉の調達が供給に追いつかなくなり、苦肉の策でフリーズドライの牛肉で補充することなったのです。それでも足りなく、1割増やし、2割増やし、3割増やしていきましたが、食材の仕入れ相場はどんどん上がり、牛丼も値上げすることになりました。

フリーズドライ肉による味の劣化は火を見るより明らかで、お客様がどんどん離れていったのです。バイト時代、賄いを食べるのが楽しみだったあの味ではありませんでした。以来、とにかく品質は最優先であり、吉野家の変えてはいけない価値観となりました。

--次回は、吉野家が倒産の危機にひんしたときの食の思い出についてお聞きします。

安部修仁(あべしゅうじ)
1949年福岡県生まれ。1967年福岡県立香椎工業高等学校卒業後、プロのミュージシャンを目指し、上京。バンド活動の傍ら、吉野家のアルバイトとしてキャリアをスタート。1972年創業者松田瑞穂氏に採用され、正社員として吉野家に入社。1980年に吉野家の再建を主導し、1992年に42歳で社長就任。在職中はBSE(牛海綿状脳症)問題、牛丼論争と呼ばれる熾烈な競争を社員の先頭に立って戦い抜き、元祖牛丼店である「吉野家の灯り」を守り続けた。

(中野栄子)

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