仏料理シェフ・三国清三さん 「志は平等」と母の教え
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はオテル・ドゥ・ミクニのオーナーシェフの三国清三さんだ。
――出身は北海道増毛町。7人兄弟の三男ですね。
「増毛町はニシン漁で成り立っていた町で父も漁師でした。手こぎの船で、いつも父と私と2人で漁に出ました。『大きな波はよけようとするとかえって危ない。正面から向かっていくと乗り切れる』と教わりました。今思えば逆境に正面から挑む姿勢を教えられた気がします」
「私が生まれる前にニシンがとれなくなり、家は急に貧しくなりました。母が農業をしていたので、食べ物には不自由しませんでしたが、兄も姉も中学を出て働いていました。私はどうしても進学したくて恩師に相談したところ、住み込みで働き夜は料理学校に通わせてくれる米穀店が札幌にあるとのこと。そこに世話になることにしました」
「札幌に行く前夜、母に言われた3つのことが、今の自分にとって大切な教えになっています。みんなにかわいがってもらいなさい。稲穂のように頭をたれて生きなさい。そして、志は平等なのだから中卒でもがんばりなさい」
――夜間の料理学校に行ったのが、料理の道に入るきっかけだったのですね。
「当時、増毛町に飲食店はほとんどなく、働いた店で洋食を生まれて初めて食べました。ハンバーグに感動していたら『100倍おいしいハンバーグを札幌グランドホテルが出している』と言われ、就職したいと思いました。中卒の私は社員食堂の洗い場を手伝うアルバイトとして雇ってもらいましたが、仕事ぶりが認められ、半年後に調理部の正社員となりました」
「その後、フランス料理の神様といわれた村上信夫料理長のいる帝国ホテルでまた鍋洗いの毎日を経て、在スイス日本国大使館の料理長に就任。フランスの三つ星レストランで修業して帰国、1985年、東京・四谷に『オテル・ドゥ・ミクニ』を開きました」
「両親は増毛町から一歩も出ないので、私が料理人を連れて帰郷、料理を楽しんでもらいました。母はフォーク、ナイフは使えないからと、初めは食べてくれませんでしたが、箸を渡したらおいしそうに食べてくれました。父は心筋梗塞で寝たきりになっていましたが、別室で『おいしい』と言って残さず食べてくれました。父はその3カ月後に亡くなりました」
――いいタイミングで親孝行ができたのですね。
「そうですね。親子は何も言わなくても通じ合えるものかもしれません。娘(25)がいますが、最近、急に後を継ぎたいと言ってくれました。今年、店は33周年を迎えました。記念小冊子の最初のページには、料理人の服を着た3歳の娘との写真。大学院で心理学を学んでいて、料理には関心無く、店も私で終わりかなと思っていましたが、背中を見て何かを感じてくれたのかもしれませんね」
[日本経済新聞夕刊2018年7月3日付]
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