縄文人も食べていた納豆 煮豆とワラの幸運な出合い
30の発明からよむ日本史 (1)納豆=縄文時代
縄文人がすでに食べていたともいわれる納豆。誕生については謎が多いが、煮豆とワラとの出合いによって生まれたのは、間違いないことだろう。現在はたんぱく源として人々に食されているが、庶民がごく普通に食べるようになったのは、江戸時代のことだ。そして、庶民の食卓の定番となった。簡単に作ることが可能ということもあって、長く機械による生産が進まなかった納豆だが、大正時代になって、現在に続く生産体制が整うことになった。日本史に残されたモノやコトがどのような契機で始まったのかなどを紹介する『30の発明からよむ日本史』(日本経済新聞出版社)から、食に関する部分を取り上げて、4回にわたり連載する。第1回は「納豆」について。
縄文時代から食べられていた納豆
日本人は、いつから納豆を食べはじめたのでしょうか。はっきりしたことはわかりませんが、中国大陸から稲作が伝わった縄文時代の終わりごろには、すでに食べていたのではという説があります。納豆の基になる大豆は、縄文時代の終わりに日本に伝わったとされます。
縄文人は竪穴住居の床に稲ワラを敷いていました。納豆を作るのに欠かせない納豆菌は枯草(こそう)菌の一種で、空気中や枯れ草、稲ワラなど、身近なところにたくさんひそんでいます。納豆菌は暖かく、湿ったところを好む性質があるため、保温保湿性にすぐれた稲ワラは、納豆菌にとっては格好のすみかです。
米や大豆の栽培が普及した弥生時代に、納豆のような食べ物があったという説もあります。弥生人は、ヤマイモをすりおろして(現在のトロロ汁のようなもの)、生で食べていたようで、糸を引く豆もそれほど抵抗なく食べることができたのかもしれません。
納豆の誕生にはさまざまな説がありますが、いずれにしても煮豆とワラとの出会いがきっかけだと考えられています。全国納豆協同組合連合会のウェブサイトによると、日本産の稲ワラ1本には、約1000万個もの納豆菌が胞子の状態で付着しており、ワラを束ねて「苞(つと)」という容器を作り、その中に煮豆を詰めておけば、煮豆が糸を引くようになるそうです。
弥生人はそのまま食べるには硬い大豆を、土器で煮て食べました。ただし強度の問題で長時間煮ることができなかったため、つぶして熱を通りやすくしてから煮たとされます。
もし煮豆が床に敷いた稲ワラの上にこぼれたとしたら、煮豆には稲ワラをすみかとする納豆菌がつきます。竪穴住居の適度な暖かさが一種の発酵室のようになり、納豆が誕生したとしても不思議ではありません。
馬のエサを人間が食べた!?
納豆の誕生には、平安時代後期の武将、源義家が関連しているという説もあります。現在の東北地方へ遠征した義家は、前九年合戦、後三年合戦で安倍氏、清原氏を討伐しました。これがきっかけとなり東北地方を中心に、義家と納豆誕生に関する逸話がいろいろと残っています。
当時の戦いには、馬が欠かせませんでした。その馬の飼料は大豆でした。義家は大豆を煮て乾燥させ、俵に詰めて遠征に持っていきました。
後三年合戦で敵の清原家衝が金沢柵(かなざわのき)に立てこもり、戦いが長引いてしまいました。馬の飼料である大豆が不足してしまったため、義家は急きょ、農民に大豆を提供させました。しかし、急いでいたこともあって、農民は煮た大豆をあまり冷まさずに熱いまま俵に詰めて差し出したそうです。
すると、数日たって煮豆は臭いを発し、糸を引いていました。この煮豆を食べてみるとおいしかったことから、馬ではなく兵たちの食料になったという説です。
ワラに包むのは日本発の製法
記録上、納豆が登場するのは、平安後期に書かれたとされる藤原明衡の『新猿楽記』に、好きな食べ物として「塩辛納豆」と記載されたのが最初のようです。
納豆は大別すると「糸引き納豆」「五斗納豆」「寺納豆」の3種類があります。
●糸引き納豆……蒸した大豆に納豆菌を加えて発酵させたもので、もっとも一般的な納豆。
●五斗納豆……糸引き納豆に米麹と塩を加えて発酵させたもので、山形県米沢地方の郷土食。「雪割納豆」とも呼ばれる。
●寺納豆……大豆から麹(こうじ)を作って塩水につけ、数カ月熟成させてから乾燥させたもの。「塩辛納豆」とも呼ばれる。
なお、中国には北京語で「豆」と呼ばれる食べ物があります。色は黒く、塩気が効いており、臭いは味噌風ですが、味や香りはさまざまです。この豆は、寺納豆にかなり近いものです。また、ネパールの「キネマ」やインドの「バーリュ」などは、糸引き納豆に似ています。
中国にも蒸した大豆を包んで作る糸引き納豆があり、それが伝わったという説もあります。ただ、ワラに包むという製法は、日本で発明されたものとされています。
戦国時代に茶道を大成した千利休は、天正18(1590)年から翌年にかけての茶会記を記した『利休百会記』の中で、天正18年に7回、茶事で「納豆汁」を出したという記録があります。
一方、通常の納豆と違って粘りのないのが浜納豆です。栄養価が高く保存性にすぐれていることもあって、戦国時代には兵糧として重宝されました。徳川家康は浜納豆がお気に入りで、戦場に持参したと伝えられています。朝鮮出兵の際、加藤清正軍が空になった味噌袋に煮豆を入れて運んでいたところ、馬の背で温められた煮豆が納豆になり、兵士が食べたという逸話もあります。
江戸時代には朝食の定番に
庶民の間で納豆が幅広く食べられるようになったのは、江戸時代になってからのことです。醤油(しょうゆ)が安く手に入るようになったことが、納豆の普及に一役買ったともいわれています。
納豆は、もともと現在のように一年中食べられるものではなく、おもに冬の食べ物でした。江戸時代中期以降になると、大都市では一年中食べられるようになりました。それだけ納豆は人気があったということでしょう。
江戸詰めの紀州藩医が記した『江戸自慢』という見聞録には、「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思はる」との記述があります。
江戸の朝は、納豆売りの「なっと、なっと、なっと?」という、威勢のいいかけ声とともにはじまりました。ざるにワラを敷いてその上に大豆をのせ、室(むろ)に入れてひと晩発酵させた「ざる納豆」が一般的で、納豆売りはこのざるを天秤(てんびん)棒で担いで量り売りをしていたそうです。
納豆売りは川柳などにもしばしば登場しています。
納豆と蜆(しじみ)に朝寝おこされる
納豆売りから買った納豆と、炊きたてのご飯と味噌汁が、庶民の定番の朝食でした。つまり江戸時代には、納豆が庶民のものになったと同時にご飯、納豆、味噌汁という現在まで続く朝食の定番ができあがりました。
ちなみに、関西では納豆嫌いの人が多いといわれますが、実際には元禄時代まで納豆売りは京都や大坂にもいました。人気がなかったのか江戸時代後半には姿を消しましたが、納豆そのものは自家製で食べていたようです。
駅前広場から知名度を上げた水戸納豆
納豆といえば、水戸のイメージが強いかと思いますが、水戸が納豆で知られるようになったのは、じつは明治時代になってからのことです。
明治22(1889)年、茨城県水戸市と栃木県小山市をつなぐ水戸鉄道(現・JR水戸線)が開通し、たくさんの旅行客が水戸駅前を賑(にぎ)わすようになりました。
同年に創業した水戸天狗納豆は、水戸の駅前広場で旅行客への土産物として納豆を売り出します。当時の納豆の売り方は、行商人が一度にたくさんの納豆を担いで、得意先を1軒1軒回って買ってもらうという大変な重労働でした。
しかし、人が集まる駅前広場なら、移動せずに販売することができます。このアイデアは見事に的中し、水戸の土産物として納豆は高い人気を得ました。土産物として持ち帰られた納豆は、それぞれの地域で食卓にのぼり、納豆といえば水戸というイメージを定着させていったのです。
水戸は小粒大豆の産地でした。小粒大豆は早生(わせ)で、3カ月程度で完熟し、収穫が可能です。もともと大粒の大豆から作る納豆のほうが人気で、小粒のものはあまり好まれていませんでした。
しかし、納豆にすると、その口当たりが独特の風味を醸し出したのです。こうして主流となった小粒納豆は、全国的に評判になりました。
現在、さまざまな種類の納豆を手軽に入手できます。粒の種類だけでも、大粒・中粒・小粒・ひきわりがあり、納豆に使われる大豆、納豆を包んでいる容器によって風味が変わります。自分の好みの納豆を見つけて、長く付き合いたいものです。
お坊さんの貴重なたんぱく源だった!
納豆という名前は、お寺の納所、つまりお寺の台所で作られたことに由来するという説があります。
仏教の戒律によって、肉食が禁じられ、動物性たんぱくをとることができなかったお坊さんたちにとって、納豆は貴重なたんぱく源でした。
また、煮豆を神棚にお供えしたところ、神棚を飾るしめ縄についていた納豆菌によって、煮豆が納豆に変わったという言い伝えがあり、「神に納めた豆」という意味から納豆と呼ばれるようになったという説もあります。
豆を腐らせたと書く「豆腐」と箱に納められた豆と書く「納豆」は、名前と言葉の意味が入れ替わっているといわれますが、これは俗説です。
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