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西洋に追いつけ 伊藤博文、駆け上がった技術官僚の道 近代化支えた「長州ファイブ」(上)

2018/5/4

「地元」の山口県萩市にある伊藤博文の銅像=PIXTA

日本史の偉人で「立身出世」といえば、豊臣秀吉と伊藤博文(1841~1909年)が代表格だ。伊藤は幕末の長州藩における農民・足軽の身分から、出世を重ねて初代の総理大臣になった。大日本帝国憲法の起草で中心的な役割を果たし、日清戦争を指導したほか、首相を計4回、貴族院議長、韓国統監なども務めた政界の第一人者だった。昇進の原動力として政府内の「長州閥」の後押しや実務能力の高さが指摘されていたが、最近ではテクノクラートをめざした一面も見直されている。明治時代、技術官僚として日本の近代化を支えた「長州ファイブ」の肖像を2回にわたって紹介する。

■明治維新の5年前に英国留学

その発端は1863年、20代前半での英国への密航留学だ。当時の欧州は日本人にとって、まぶしい先端技術の宝庫だった。「明治の技術官僚」(中公新書)を著した柏原宏紀関西大学准教授は「伊藤は専門技術の習得を目指して英国へ留学したのではないか」と推測する。伊藤はもともと、外国勢力を排斥する攘夷(じょうい)思想を唱える吉田松陰の「松下村塾」の出身だった。同塾の門下生では、高杉晋作や久坂玄瑞らが知られているが、伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。攘夷運動は時代の最先端の政治潮流でもあり、20代前半の伊藤は英国公使館焼き討ちに参画するなど、当時最も過激な一派のひとりだったという。

中年以上の人には旧1000円札の肖像としておなじみの伊藤博文

しかし63年には一転、長州藩が選んだ5人の1人として英国に留学した。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジなどで学んだという通称「長州ファイブ」だ。その顔ぶれは、伊藤に加え、井上馨(後の外相)、遠藤謹助(同造幣局長)、山尾庸三(同工部卿)、井上勝(同鉄道庁長官)の5人。なかでも過激攘夷派だった井上馨は伊藤の生涯の盟友となった元老政治家だ。ほかの3人はそれぞれ専門的な技術と知識を駆使して日本の近代化を進めた。

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