レースチーム監督・土屋圭市さん 褒めぬ父は反面教師

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はレースチーム監督の土屋圭市さんだ。
――3月にお父様を亡くされたとか。
「3月22日に亡くなったばかりです。父とは十数年間、口をきいていませんでした。高校進学時から義絶状態なのです。地元長野県で精密機械向けの金型工場を経営していた裕福な父は、私を後継者にしたかったのでしょうが、自動車レースに夢中だった私は、自動車科のある工業高校に進みました。父は『出ていけ』と怒り、私は友人4人でアパートを借りて高校時代を過ごしました。アルバイトで生活費とガソリン代を稼ぎ、峠道を走り込んで運転の腕を磨きました」
――和解は無理でしたか。
「1984年にプロドライバーになり、一方でドリフト走行で『ドリキン土屋』として名前が売れました。さらにホンダやトヨタチームで日の丸を背負って7年間戦ったフランスのルマン24時間レースでは、クラス優勝や総合2位入賞を果たしました。しかし父はそれを無視。関係修復はなく、私は今も、父を父とは感じられないのです」
――一方でお母様には孝行されたようですね。
「母には迷惑ばかりかけました。感謝のひと言しかありません。高校で他校の生徒とけんかし、母はいつも学校に呼ばれて泣いて帰っていました。父と疎遠になった後、高校の学費をこっそり出してくれたのも母でした。だからプロドライバーとして収入を得るようになってからは長野県に家を建て、母を引き取って好きなように暮らしてもらったのです。それは私の喜びでした。しかし、母は、私が90年にオーストラリアでレースに出ている時、病死してしまいました。急きょ帰国した私は、1カ月ハンドルを握れませんでした」
「死んだ母にレースで助けられたことがあります。ホンダNSXで95年のルマンにクラス優勝した時のこと、真っ暗な夜の雨の中で片方のライトを失いました。本当に何も見えません。それでも『ユノディエール』という有名な直線道路を時速265キロメートルで踏み続けないと勝てないのです。私は『怖いよ、お袋助けて』と心の中で叫びながら全開走行を続けました。すると、視野がモノトーンになり、真夜中なのに朝もやの中にいるように路面の様子がわかるようになったのです。オカルトを信じない私も、帰国後すぐ母の墓に詣でました」
――親との関係が、レースチームの監督や事業の運営に影響した点はありますか。
「私は父から一度も褒められたことがありません。その反動か、主宰しているJAF公認レース『ドリフトキングダム』関係者や若手ドライバーを褒めて育てることが多いかもしれません。もちろん相手を見て褒めたり叱ったりですが。人を引っ張る機微を知る上で、影響があったかもしれませんね」
[日本経済新聞夕刊2018年4月24日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。
関連企業・業界