「歌える噺家」橋本恵史 カンボジアの音楽教育を支援中学校建設に向け、一世一代のチャリティーコンサート

田村麻子(左)のコンサートでは、歌わない「旅先案内人」に徹した(2017年10月24日、埼玉県の川口総合文化センター・リリア音楽ホール)
田村麻子(左)のコンサートでは、歌わない「旅先案内人」に徹した(2017年10月24日、埼玉県の川口総合文化センター・リリア音楽ホール)

関西を拠点に活躍するテノール歌手、橋本恵史はカンボジアに楽器を送り、自ら指導に訪れ、音楽教育を定着させる活動をドイツ留学中の2011年に始めた。これまで小学校を中心に回ってきたが、卒業生が音楽から離れてしまう不安もあり、支援の輪を中学校の校舎建設へと広げた。今年10月の開校を目指し、資金集めのための大がかりな演奏会を5月16日、兵庫県立芸術文化センター(PAC)大ホールで開く。

橋本の存在を知ったのはニューヨーク在住のソプラノ歌手、田村麻子が17年10月24日、埼玉県の川口総合文化センター・リリアの音楽ホールで行ったコンサート「オペラの中の究極のヒロイン達」に招かれ、「旅先案内人」の役回りを担ったときだ。橋本は一切歌わず、田村が書き下ろした台本に沿って巧みな話術、軽やかな身のこなしで次に歌われる曲の聴きどころを伝え、歌の間は相手役も務めた。あまりに「しゃべり」が達者なのに驚き、終演後に話を聞けば「六代桂文枝師匠に弟子入り、『歌曲亭文十弁(かきょくてい・ぶんとうべん)』の芸名もいただいた」と、驚くべき答え。1曲も歌わないで、強烈な存在感を発揮した稀有(けう)のテノールである。

次いで渡されたのが、チャリティーコンサート「橋本恵史のお愉(たの)しみ会第六章」のチラシ。PACのオーケストラの音楽監督を務める指揮者、佐渡裕の「この男のパフォーマンスは国境を越える。思いっきり笑って泣いて……そしてやっぱり笑ってください!」という推薦文、噺家(はなしか)姿の橋本の写真などがにぎやかに躍る表紙をめくると、過去5回の「お愉しみ会」で演じた無数の変装写真のコラージュが目に飛び込んでくる。

だが、橋本の真意は裏表紙にある。「このコンサートはチャリティーコンサートです」「このコンサートの純益、および皆様からの募金はすべてカンボジアの音楽教育発展、校舎建設に充てられます」と大きく書かれ、カンボジアの子どもたちに囲まれた写真の間には、近くNPO認定を受ける見通しの橋本のチーム「World Music Project 世界の学校に音楽を」の名称とロゴが刷り込んである。

「最初は母校の大阪音楽大学の校内で始めた催し。2001席の大ホールまで進出できるとは、思ってもみなかった」。カンボジアのシェムリアップ市で10月に開校予定のトロー・オンドーン中学校の建設費用は約1千万円。今までのチャリティーを通じて500万円を確保、「今回を全席売り切れにできれば、ちょうど残りの500万円が集まる」との計算だ。「満額にならんと、トイレのドアとか階段が1段とか足りなくなってしまうから、必死ですわ」

何が橋本を、カンボジアの音楽教育に駆り立てたのか? 疑問を解くには、ひとまず生い立ちまでさかのぼらなければならない。大阪府寝屋川市で1985年に誕生。内科医の父と保育士の母の間に生まれた男ばかり4人兄弟の末っ子だった。長兄は内科医、次兄は整形外科医、すぐ上は理学療法士と全員が医療関係に進んだが、恵史だけは長く、進路を定められずにいた。

「吉本興業の芸人さんから競馬の騎手、ラグビー選手、ミュージカル歌手……と行き当たりばったり。ついに高校2年生のとき、家族会議が招集されたが、厳格な父には何を言っても全否定されてしまった」という。たまたま子どものころ習っていたピアノの先生に相談すると「音大でオペラを学べば、役者をするにも役立つ」と指摘された。オペラを「太ったおじさん、おばさんが絶叫する仕事」と思い込んでいた橋本は、オペラ科ではなく声楽学科の歌曲専攻に入学した。

クラシック音楽自体も長く「眠い、堅苦しい」と誤解していたが、「音大に進んで学ぶうち素晴らしさに目覚め、いつしかドイツ歌曲(リート)の世界の魅力をどう伝えればよいかと、真剣に考える自分に変わっていた」。大阪音大の大学院を出てもリートの世界を究める気持ちは変わらず、ドイツのハンブルク音楽院(コンセルヴァトーリウム)へ自費で留学した。「一日中ドイツ語に囲まれ、音楽と真剣に向き合う中でだんだん、自分の進むべき方向がみえてきた」。日本語の感覚も維持しようと、インターネットであれこれ検索するなかで「桂枝雀師匠の落語と出合い、こんな面白いものが世の中にあるのかと仰天した」。

ドイツの高等音楽教育では演奏の専門実技だけでなく、朗読や演技、身体表現など多様な授業を通じ、学生の表現者としての総合能力を高めていく。その延長線上で、橋本はドイツ歌曲と落語の融合を考えた。「11年に帰国して最初のコンサートの幕あいに、『おんち亭うたい』の名前で落語を披露したら、アンケートの大半が歌にほとんど触れず、落語をほめてくれたのは、うれしい誤算だった」と振り返るが、「わらじは2足どころか、はけるだけはこう」と思い切るきっかけにもなった。17年、文枝の正式な弟子となり、「話せる歌い手」から「歌える噺家」へと、大きくかじをきった。今では厳しかったはずの父までが落語を始め、「おうしん亭ちょうしんき」を名乗っている。

カンボジアとの関係もハンブルク留学中、突然に始まった。10年当時、日本の民主党政権は行政の無駄の「仕分け」に熱中し、小学校の芸術鑑賞予算を大幅に削減しようとしていた。オーケストラやオペラ団体など、鑑賞教室に派遣される団体を中心に抗議と反対の署名活動が始まり、海外在住の留学生にも賛同の要請が届いた。橋本は迷った末、署名をしなかった。「声を上げるのは簡単だけど、ふだんから日本の音楽家がどれだけ、子どもたちのことを真剣に考えているのかと胸に手を当てたとき、自分のやるべきことは別にあると確信した」

カンボジア・シェムリアップ市トロー・オンドーン小学校の子どもたちと「世界の学校に音楽を」のメンバーの日本人音楽家

同級生のサックス奏者、妹尾寛子と2人であれこれ話していて、「世界には音楽教育のない国がたくさんある」と気付き、いきなり「世界の学校に音楽を」の大テーマを掲げた。具体的には日本の義務教育で必需品ながら、卒業後は使われず眠っている鍵盤ハーモニカ、リコーダー、ハーモニカなどを集めて途上国に送り、自分たちが指導に訪れる仕組みを整えた。鍵盤ハーモニカのホースをはじめとする消耗品はメーカーと交渉、支援の一環として新品を提供してもらった。まずはカンボジアに白羽の矢をたて、妹尾と2人で乗り込んだのが11年。「いざシェムリアップの街に入ると、音楽の授業のない学校に電子ピアノが20台あって、誰も使わないし使えない。外国の富豪の寄付という話だったが、初動段階で『現場を見ない善意の危険』を思い知らされたのは幸いだった」という。今では20人の日本人音楽家が入れ代わり立ち代わり、指導に訪れている。

橋本も年2回のペースで通い続けるが、時間の経過とともに2つの問題に直面した。一つは継続性。「音楽を取り入れると子どもが殺到、教室が足りなくなった。さらに小学校を出ても中学校に入れなかったり、入れても音楽教育がなかったりすれば、元のもくあみになってしまう」と理解した橋本は、「最初は考えもしなかった」という中学建設に自らかかわる決断を下した。もう一つは、音楽の質の維持。ポルポト政権時代の知識階級抹殺で音楽教育も根こそぎにされ「平和で美しく、広く親しまれている歌が他国に比べて少ない」ところにインターネットが普及、「子どもたちにとって好ましくない音楽が大量に流れ込み、そういう曲に限って覚えやすかったりもするので、早い時点で良しあし聴き分ける耳を育てなければ」と、危機感を募らせる。しばらくはカンボジアから目が離せない。

素顔の橋本はむしろ、小柄で繊細な雰囲気だ

一つの節目といえるシェムリアップ市トロー・オンドーン中学校の開校に向け、最後の大規模な資金集めの機会となる5月16日の「お愉しみ会」。前半はビッグバンド、音響補助(PA)を入れ「橋本恵史の七変化、笑って泣けるショー」に徹する。後半はアコースティック(生音)でオーケストラ、合唱団を交え、童謡から自作曲まで幅広く、楽しんでもらう。山田耕筰作曲の童謡を題材に桂文枝が創作した落語「赤とんぼ」にも、歌いながら挑む。素顔の橋本は間もなく2歳になる男の子の父親であり、むしろ小柄かつ繊細な印象。もともと歌曲専攻なので、大劇場を揺るがす巨大な声量の持ち主でもない。だが「世界の学校に音楽を」を掲げ、理想に向かってまい進する日々を通じ、音楽家として、人間として、とてつもなく大きな世界を築きつつある。=敬称略

(NIKKEI STYLE編集部 池田卓夫)

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