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スポーツライター・青島健太さん 父に教わった覚悟

2018/2/2

1958年新潟市生まれ。慶応大学から東芝を経てプロ野球ヤクルトへ。引退後はスポーツライター、キャスターとして活動する。新潟市が運営する新潟市サポーターズ倶楽部の会長も務める

 著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はスポーツライターの青島健太さんだ。

 ――両親とも新潟出身だそうですね。

 「はい。現在の新潟市中央区で生まれました。暮らしたのは5歳までですが、夕方、会社から帰ってきた父親と近くの海に泳ぎに行った記憶があります。今は消波ブロックだらけですが、当時は防砂林と白い砂浜だけがずっと続き、沖には佐渡島が見える広くて素晴らしい海岸でした」

 「都会に移ってからも夏休みには母方の祖母の家に行っていました。新潟の海の家ではラーメンのチャーシュー代わりに鯨ベーコンがのっていましたね。食卓には普通にアワビやサザエがあって、よくイナダやイカの刺し身を買いに行かされました」

 ――野球の道に進んだのはお父さんの影響ですか。

 「まったく。父は化学専門の理系人間で、子どもの時にキャッチボールを少しやる程度でした。小中高と埼玉で過ごしましたが、当時は王さんや長嶋さんが大活躍していた時代です。少年野球が盛んで地域の中で自然に野球に夢中になっていきました。結局、大学も野球をやるために猛勉強をして慶応に入りました」

 ――ではお母さんは野球を応援してくれてたんですか。

 「いえ、まったく。母は私を医者にしたかったんです。母方の親類に医者が多くてね。実は私も医者になる夢がないわけではなかった。それで進学校の県立春日部高校に入ったのです。県立なら学費も安いし、母の期待には応えたいと思いましたね」

 ――お母さんに気を使わなければいけない理由が?

 「まあ……、父が酒飲んで暴れるということが頻繁にあったんですよ。母は離婚だとか、新潟に帰るとかよく言っていました。私は長男で妹もいましたから、母を支えないといけない、という気持ちが強くありましたね」

 ――今、お父さんにはどういう思いでいますか。

 「昨年の夏に86歳で亡くなりました。私とは会話の少ない難しい関係でした。ただ高校でも大学でも試合を見に来たことがあったんです。プロの初打席でホームランを打った時は喜んでくれたと思う。今から思えば彼なりの愛情を持っていたんだと思います」

 「母を気遣いながらも慶応、東芝、ヤクルトと野球を続けることは結局自分1人で決めました。自分で決めるという生き方。それは父が与えてくれたんだと思えるんです。彼なりに言いたいことはあっただろうけど何も言わず、いい意味でほったらかしだった。でもそれが私の生き方の覚悟になっています」

 ――2人のお子さんには。

 「よく一緒に遊び、時間はともにしてきましたが、娘にも息子にも進路については何も言ってません。2人とも外国で好きにやっています。自分で選び、自分で引き受ける。その覚悟は父が教えてくれたことなんだと思います」

[日本経済新聞夕刊2018年1月30日付]

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