「外様リーダー」がなぜ一番出世 井伊直政の外交術

『井伊直政』(戎光祥出版)の著者で元彦根城博物館学芸員の野田浩子氏

直政抜てきの最大の要因はもちろん、直政自身の適性だ。家康は15歳の少年の時から本人の個性をじっくり観察し直政の将来を決めたのだろう。「名門の後継者にふさわしい教育は幼少時に周囲から受けていたようだ」(野田さん)。他人に好意を抱かせる容姿や所作がきれいなことは後年まで変わらなかった。14歳まで近隣の寺にかくまわれてきたなど辛酸をなめてきたことから、交渉相手に気を配り、その立場に立って考えるクセが身についていたようだ。

よく知られているのは豊臣秀吉との講和の際のエピソードだ。家康が上洛した時に、上方での家康の安全を保証する人質として、秀吉の母・大政所が岡崎にやってきた。ほかの重臣が周囲にしばやまきを積み重ねて大政所を脅かしたのに対し、直政は菓子を持参してたびたびご機嫌うかがいを重ねたという。人質としてではなく、主君の賓客として扱ったわけだ。秀吉は直政の対応に感謝したという。豊臣政権では大名並みの格式が与えられ諸大名と交際した。こうした環境がさらに直政を成長させるのに役立った。

直政は気配りの人

家康自身も直政を「日頃は冷静沈着で口数が少ないが、自分が考え違いをしている時はほかに人がいない所で物柔らかに意見をしてくれる」と評価していたと伝えられている。自然に気配りできる人物だったようだ。

忠誠心と団結心は強烈だが主君の家康にも遠慮なく直言し、外部に対しては閉鎖的な「三河モンロー主義」の徳川家中にはいないタイプだったのは間違いない。敵に対してすら最も良い身の振り方を考える直政の外交術は、徳川家が対外勢力を味方に付けていくのに大きく貢献していった。

一方、「直政本人は兵力を操る軍事作戦に長けていたわけではない」と野田さん。直政のために家康が有能な人材を集めた家臣団が効果的に機能した。その代表が「井伊の赤備え」で知られる武田旧臣4隊だ。徳川軍団の中でも最大・最強の部隊に成長した。さらに家老格の木俣守勝は幼少時から家康に仕えた名臣で、軍事、外交ともに補佐役を果たした。

直政自身は戦場で常に先頭で敵陣に突っ込み、負傷が絶えなかったという。家中からの嫉妬を跳ね返すためにも体を張る必要があったのかもしれないが、そこに自身を安全に保ち名門の家名を守っていくという姿勢は感じられない。抜てきの理由は徳川四天王と呼ばれる有力家臣の中でも4番目の直政が何より家康の利益を優先していたことを、家康自身が知っていたことだろう。私的な利益をはかる人物を、家康はひと一倍嫌ったという。

秀吉のような立場

豊臣秀吉の死去直後から関ケ原の戦い、戦後処理まで、直政は事実上家康の分身として働いた。黒田長政をパートナーとして豊臣系大名を次々に取り込んだ。そこには生涯他人に言えない謀略もあったに違いないが、西国大名から「天下の政道をつかさどる器量がある」とまで評価されていた直政だから、それとは気付かせずに攻略を進めたに違いない。

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