ライ麦パンはフィンランドの味 酸味、バターと好相性
古都・鎌倉の駅から少し歩いた閑静な住宅街に今年7月、フィンランド人男性と日本人女性のカップルが開いたベーカリーがオープンした。「ライ麦ハウスベーカリー」だ。台風が首都圏を襲った日の朝、雨が降りしきる中、店を訪ねると、なんとフィンランド人の女性客が2人、大きな袋いっぱいにライ麦パンを抱えていた。
「フィンランドの『国民食』は、ライ麦パンなんですよ」。大事そうにパンを抱える彼女たちの姿を見て思い出したのは、店を訪れる前、フィンランドの食について教えてくれたフィンランド大使館の参事官マルクス・コッコさんの言葉。
フィンランドは今年、独立100周年を迎えたのだが(1917年にロシアより独立)、これを記念して昨秋、ある財団がフィンランドの国民食は何かと問うアンケートを取ったところ、1位となったのがライ麦パンだったという。
日本語のパンに相当する単語はフィンランド語では「レイパ」。ところが、これはライ麦パンのことしか指さないらしい。白いパンは「プッラ」で、フィンランド的感覚で言えば、日本の多くのパンは「パン」とは言えないらしい。
とはいえ、最近ではライ麦を使ったパンもよく見かけ、日本にもフィンランドらしい「パン」はあるように思うのだが、コッコさんは「まだ、これと思うパンには出合えていないんですよ」と首をひねる。そして、未訪だけどと紹介してくれたのが、先のベーカリーだったというわけだ。
「国民食としては、地味すぎないだろうか」と思ったが、考えてみれば日本人の国民食は、白いご飯。粒の大きさや、艶、粘り具合などと、どんなおコメが一番おいしいかというだけで、誰もが一言を持つ。ライ麦100%というのが、フィンランド人の愛するパンだが、これにも色々な作り方があるようだ。
オーストラリアで出会い、一緒にフィンランドの製パン学校に通ったという「ライ麦ハウスベーカリー」のアキ・ラッパライネンさんと優子さんのカップル。店では、日本人の味覚に合わせた総菜パンなどを提供する一方、フィンランドの味をそのまま伝えるライ麦100%のパンを作っている。
最もベーシックなライ麦パンは、小さな食パンのような、型で焼いたもの。焼き立てを買うと、「焼き立てを食べないで下さい」と優子さんは念を押した。「1日置くと生地が落ち着いて、酸味も増すんです」。ライ麦100%のパンは、その酸味が特徴なのだ。「ライ麦100%なのに、日本では酸味のないパンもあるでしょ。何のためにライ麦を使っているのか分からない」とアキさんは言う。
教えられた通りに2日目のパンを食べてみると、ライ麦100%ならではの芳ばしさを持つ、もっちりとした食感のパンだった。酸味が際立つおいしいパンだが、これまで食べたことがないほどの酸味ではない。
ところがだ。うっかり、パンをもう2日放っておいてはっとした。びっくりするほど酸味が増していたのだ。まるで、お酢が入っているよう。この酸味、脂肪分との相性が格別で、バターやチーズをたっぷり載せるとそのおいしいこと。後で「ライ麦パンは生地の乾燥に時間がかかり、日が経つと水分が抜けて酸味が強く感じられるんです」と優子さんが教えてくれた。
店では、巨大なドーナツのような形の伝統的なライ麦パンも見つけた。型で焼いたものより生地がざっくりとしている。穴が開いているのは、かつて家の天井からつるした棒に穴を通して保存したからだ。ライ麦パンは毎食必ず食卓に上るものだが、「寒い国なのでスープと合わせるのが定番」と優子さんは言う。
フィンランドには、とてもポピュラーなスープがある。「ヘルネケイット」と呼ばれる乾燥エンドウ豆を使ったスープだ。「ヘルネケイットは、木曜日に食べるんです」と教えてくれたのは、やはりコッコさん。「学校や軍隊など、木曜日にこれを食べるんですよ。とろっとしたスープで、マスタードをかけて食べると、とてもおいしいんです」
スープにマスタードをかける? 初めて聞く食べ方だったが、「そうそう。それにフィンランドのマスタードは日本でよく売っているフランスのものなどに比べて、甘いんです」。これが食べられるレストランがあるというので、早速訪れてみた。
東京・六本木の「フィンランド キッチン タロ」だ。東京で唯一のフィンランド料理の店だと、聞いたことがあった。2018年1月末までの期間限定出店で、フィンランド大使館の協力を得て、大使館料理長のエレナ・アダさんのレシピによる料理を提供している。その一つが、ヘルネケイットというわけ。
スープを出してもらうと、黄味がかった緑色のスープが出てきた。細かく刻んだニンジン、タマネギ、セロリ、ベーコンが入っている。「牛乳は一切使わないところがポイントの一つです」とアダさんから料理の指南を受けたという「フィンランド キッチン タロ」の料理長、松本勲さん。使用するエンドウ豆は、フィンランドから輸入したものだ。だしにはうま味調味料を使わないというのもアダさん直伝のポイントで、この店では、仔牛のビール煮を作る際にできる、肉のだしがたっぷり出たスープを使っていた。
とろみのあるスープは、味が凝縮した乾燥豆ならではの深い味わいがある。これだけでもおいしいが、やはりマスタードはかけてみなければ。「これをかけるんです」と見せてもらったマスタードの容器は、意外や意外。量販品のケチャップのようなキッチュなプラスチック製だった。「店にはフィンランドの方もいらっしゃいますが、このスープにびっくりするほどマスタードをかけるお客様もいるんですよ」と松本さんは目を丸くする。
店の人に「フィンランド風に」といってマスタードをスープに入れてもらうと、ぐるりとお皿に2周、たっぷりこれを回しかけてくれた。食べてみると、マスタードは辛みはあるものの、同時にハチミツが入っているかのように甘い。これがマイルドな風味の豆スープをなんとも言えない独特の味に引き立ててくれる。食べたくなったら「ほかのスープじゃダメ」という味だ。
さて、ヘルネケイットにはなぜか、必ずデザートとしてフィンランド風のパンケーキが付く。「学校の給食では、ほかの日はデザートが出なくても、ヘルネケイットを出すときだけはデザートが付くんですよ」と不思議な習慣を大使館広報の女性が教えてくれた。
パンケーキというと、近年日本で絶大な人気を誇るふわふわで丸いパンケーキをつい想像してしまうが、フィンランドのパンケーキは全く別物。バットなどに生地を流しオーブンで焼いたものを切り分けて食べるため、まず形が四角い。そして、食感には弾力がある。ほんのりとした甘さで、生クリームやフィンランドでよく食べるベリー類のジャムなどと一緒に食べる。
「フィンランド キッチン タロ」では、果実味のあるベリーソースをかけたバニラアイスを添えて出していた。軍隊でも、ヘルネケイットが出る日は必ずこれがデザートとして付くという。軍服に身を包んだたくましい軍人たちが一斉にパンケーキを食べている姿を想像すると思わずほほが緩んだ。
「フィンランド キッチン タロ」ではもう一つ、アダさんのレシピによる料理を紹介してもらった。「マカロニラーティッコ」と呼ばれるマカロニを使ったキャセロール(キャセロールは蓋付きの厚手鍋を使った料理)だ。
「これ、フィンランドでは『ザ・家庭料理』みたいなんです。子どもが学校から帰ってきて、『お腹が空いたから何かちょうだい』と言ったら、『分かった分かった』と言ってお母さんが出してくれるのがこれらしいんですよ」と松本さん。以前、マカロニラーティッコを週に一度、ランチの食べ放題メニューとして出していたときは、近くの企業に勤めるフィンランド人男性が、毎回通って来たらしい。「フィンランドの人はとても懐かしいと感じるメニューみたいなんですよね」(松本さん)。
出てきたマカロニラーティッコは、たっぷり使われたチーズのよい香りが漂うものの、一見なんの変哲もないマカロニ料理。ところが、食べてみると中にディルが入っている。フィンランド料理によく用いられる香草だ。ひき肉、タマネギ、マカロニを使っていると聞き、ややこってりとした味を想像していたら、これが入るだけで味わいは爽やかでさっぱり。
さらに「若い人は、これにケチャップをかけて食べるんですよ」と松本さんが言う。グラタンにケチャップをかけるなんて初めてだと思いながら、真っ赤なケチャップと一緒に食べてみると、まさにおやつにぴったりの味。ん、ビールのツマミにもいけるかも。
「フィンランドの食は、とても素朴でシンプルなんです。ライ麦パンやジャガイモ、肉や魚、乳製品や豊かな森の恵みであるベリー類をよく食べる。私はフィンランドの魚が好きですね。日本にも魚はありますが、私はフィンランドの魚が一番好きです」とコッコさんは言う。
日本人が最もよく食べる魚は海の魚。フィンランドでも国の南部に接するバルト海の魚を食べるが、「森と湖の国」と言われるように国土の約1割が水域で湖の数は世界有数。なんと約19万もの湖がある。だから湖で捕れる魚の、フィンランドならではの味に郷愁を覚えるのだろう。
「どんな魚が好きなんですか?」と聞くと、コッコさんは「ムイック」と呼ばれる小魚を教えてくれた。ニシンに似たサケ科の淡水魚で、フライにするのがポピュラーな食べ方らしい。ムイックの写真はなかったが、コッコさんはスマートフォンから、フィンランドのニシン料理の写真を探してくれた。日本でよく見る大きなニシンではなく、ワカサギのような小さな魚だった。燻製にしてあり、まるでメザシのようだ。写真を見ながら、ご飯が食べたくなる。
マスタードをかけて食べるスープや、ケチャップをかけほお張るマカロニキャセロール……。驚きの連発だったが、小魚を見て急にフィンランド料理との距離が縮まった。華やかさよりも素材を大切にするフィンランドの味は、日本人の味覚に寄りそうのかもしれない。
(フリーライター メレンダ千春)
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