オバタカズユキさん 私の本を近所に配った父母
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はコラムニストのオバタカズユキさんだ。
――両親と共に引っ越した千葉県八千代市の印象が強いとのことですが。
「父は82歳、母は91歳で健在です。私が5歳ぐらいだった1960年代後半に、父のペット飼育用品の卸問屋開業のため、東京都内から八千代台に移りました。今も八千代台駅前には『住宅団地発祥の地』の碑がありますが、当時は小学校の同級生の80%がサラリーマンの子でした。自営業の子は10%もいません。家に遊びに行くと『お紅茶』が振る舞われ、彼らは定額の小遣いをもらっています。お金があるときに物を買ってもらう私の家との違いはカルチャーショックでした」
「父は製薬会社のエーザイの優秀な営業マンでしたが、東京都文京区にスナックのような店を出していた母と知り合い、脱サラしました。しかし、その後店をたたみ、私の小児ぜんそく対策を含めて八千代台に移ったのです。熱帯魚のグッピーブームの時代で、父は車でペット店に商品を配送しましたが、収入は不安定でしたね」
――ご両親との関係は。
「父にあちこち連れて行ってもらった記憶はありますが、精神的・内的な関係はずっとなかったと思います。私を溺愛していた母の存在が大きく、父は正直、影が薄かったのです。当時の私は『兄さんが欲しい』と思い続けていました。それは同性のお手本が欲しいということだったのでしょう。私が思う理想の大人の男は、高校時代まで徹底的に作品を読み込んだ作家の開高健さんでした」
「生活が苦しい中、両親は私の大学の学費を工面してくれました。それでも当時の私は、母の気持ちを押しつけがましいと感じ、早く独立したいとばかり考えていました」
――その後、ご両親との関係に変化はありましたか。
「父の商売は、私が26歳で結婚した頃まで低空飛行でしたが、90年代初頭、劇的な成功が訪れました。それで経済的な余裕ができたのです。その少し前、母が乳がんを患ったこともあり、両親の仲は良くなりました。私が『言論の自由』などの著書でオバタカズユキになったのもそのころです。一気に変化が起きた感じです」
「父母は私の本を大量に買い込んで、近所に配っていたそうです。若い私は抵抗を感じましたが、30代半ばごろから、そんな気持ちは薄れました。私も家族を持ち、父母は年を取って付き合いやすくなったのです」
「数年前まで両親を車に乗せ、家族全員で休暇旅行をしたいと思っていました。けれど、どちらかが病気になるなどして実現していません。思えば私がサラリーマンや会社回りの世界を好んで書くのは、自営業だった実家の影響かもしれません。自分たちだけが違う、という意識を言語化してみたいのです」
[日本経済新聞夕刊2017年7月18日付]
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