TV司会者 A・ポンピリオさん 料理好きは父と同じ
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はTV司会者のアンドレア・ポンピリオさんだ。
――お父さんはイタリア出身だそうですね。
「幼少時に祖父が他界して祖母が再婚したこともあり、父は早くから自立しなければと感じていたそうです。19歳のとき、オランダの先進的で自由な空気に引かれ、ロッテルダムに移り住みました。戦争終結からまだ10年しかたっていませんでしたが、いずれ欧州はひとつになると直感的に分かっていたのでしょう」
――お母さんとはどうやって出会ったのですか。
「父は国連教育科学文化機関(ユネスコ)で仕事をしていました。1960年代半ばに日本で大きな国際会議があるため、開催の1年前に来日。東京・日暮里あたりのアパートに住み込んで準備に取りかかりました。空いた時間にイタリア語を教えており、当時まだ大学生だった母と出会いました」
「母はオランダに帰国した父を追い、現地で結婚。姉が生まれてしばらくして一家は再び日本に居を移します。私は東京生まれですが、その時点で両親と姉はオランダ人でした。イタリアと日本の血を引く私がオランダ国籍なのはそのためです」
――どんな家庭だったのですか。
「父はイタリア語、母は日本語で我々に話しかけ、インターナショナルスクールに通っていた姉と私は英語や日本語をごちゃ混ぜに使っていました。ただ、毎年3カ月間はイタリアで過ごしたので、現地の生活や価値観には幼いころからなじんでいました。イタリアのいとこたちとは今でも緊密にやり取りしています。渡航費など大きな負担だったはずですが、いつも家族が最優先の父でした」
――お父さんは2度目の来日後、ジャーナリストとして活躍したそうですね。
「イタリアのメディアの東京特派員として週刊誌などに記事を書いていました。海外出張が多く、私も崩壊前のソ連に連れていかれました。貴重な体験でしたね。ただ、ついていくだけでは手持ち無沙汰。私も行った先で写真を撮り始め、後に報道写真家になるきっかけになりました」
――どんな影響を受けましたか。
「父は料理を作るのが好きでいつも厨房に立っていました。私は料理上手な女性と結婚してパンケーキの香りで目覚めるのが夢でしたが、気づいたら父とまったく同じ、自分で料理をする人間になっていました。それどころか料理番組にまで出るようになりました」
――いまでもお父さんによく会いますか。
「週に1回くらいの頻度で横浜市の両親宅を訪れ、私の息子たちとともに父特製のパスタを堪能します。国際結婚は様々な困難に直面しますが、両親は今でも仲むつまじく、これからも幸せな結婚生活を送ってほしいですね」
[日本経済新聞夕刊2017年6月27日付]
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